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歯科
歯科口腔外科。雰囲気良好。
歯の模型作りは、リハビリの装具よりは精巧で、技術の自己満足が直接患者の満足につながりそうでいい。
歯形をとって石膏を流し、ファントムを撮る(空間の方ではないw)。みんな意外に智歯が残ってる!抜かなきゃだね、と脅される面々。いいのかこんなに楽しさ半分でw

睡眠を強制的に矯正したら、いろいろ回り始めた。よかった~
こういうエピソードを繰り返していく中で、一回一回何かが変わっていく。
現状を打破する能力はこの資本主義・実証科学みんな大好き的世界で生きていくには第一義的に大切なんだろうけど、一度そこに息詰りであったり限界を感じた場合、現状に甘んじる能力も大切なんだなーと。社会にとっていいことと、自分にとっていいことをはき違えると不幸なことになる、というのを、考えちゃいるけど未だ身体に染み込んでいない。(勿論両者が同じだと思える人には関係ない話だけど。)S性とそれに実質的に対応するM性の対立をいかにうまい具合に薄めるか。一時期は自己との対話を意識しない能力。一部の人はこれを堕落とも怠惰とも呼ぶ。確かにそれは社会的な視点からは堕落なんだけど、一個人の視点としては多分違う。生まれた時から生きることに一生懸命でない人なんていないんだよねきっと。そのへんをきちんと分解して、社会でもうまく生きていけるようにチューニングしたいものです。
バランスというのは一つの要素では作れなくて、だから多くのことを見聞していろんな価値観の要素を認識して、相対する二つのものがあったら隣同士に並べてみて、その重み付けをしていくことが、怠惰をわずかながらでも知っている人がこの社会で生きていくのに必要なことなのでしょう。
just dig.
ポリクリはリハビリ開始、って書くと誤解を招きそうなので、リハビリテーション科が開始。早速身体診察の被験者に。先生曰く、君、大腿四頭筋は柔らかいけど、股関節外旋は固いねー、ほら、ほとんど曲がらない、とかなんとか。班員に嬉しそうだね、と言われる。本人はそういうつもり全くないのだけれど。いじられ方が定着してきた。

患者さんは元気。アナムネも一方的に喋られるから外来の時間内に終わらない。病棟だったらいくらかかってもいいのにね。結局手術4回したらしいのだが、うち2回はいつどんな手術したのかわからず。プレゼンでごまかす力だけでなく、さりげなくClosed questionできる力も欲しい。
ポリクリの初めに散々身につけろといわれたOpen questionだけど、慣れてしまえばそっちの方が楽。知識が薄くても聞けてしまうし、自分が何をどうしたいのかわからなくても話が進む。でもそれだけじゃいかんのよね。それはポリクリ外でも。

担当患者が来るまで一時間くらい待たされた時、男2女1で昼間から"自分を掘る"話を永遠とする。いわゆる観察と分析、ではなく、反省と直感による自己表現。結論としては、他人は何とでも言うんだよねーということ、将来社会性を失わないために我々は精神科には行かない方がいいかもね、ということ。特定の友人以外とそういう話をするのは数年来だった気がするが、案外そういうモデルを提出しあえる人が身近にいるのがわかって心強い。そういう人が少数でもいる社会なら、自分でも生きていけるかも、と少し思えた。

も少し元気出してQB解こ。
原動力
5年先のことなんて考えもつかないし、5年後のために1年後に何をしていればいいか考えて、そのために今何をするかなんて考えも及ばない。だからといって、今何もしなくていいわけではない。それがiいずれも原理的に仕方のないことなのはわかっている。

究極的に言えば、結局選択なんてあってないようなものだし、自由なんてあってないようなものだし、束縛されているようで、完全にそうだというわけでもない。そういう漠然とした評価しがたい宙ぶらりんの、恵まれているのか恵まれていないのかすら自己評価不可能な環境にいて、もしもそこに一つの、全ての質量をもつものを引き込みうる質点を見つけるとしたら、それは原動力という言葉だと思った。

たとえば5年先のことはキャリアープランニングの方法論において極めて大切だけれど、そこに何らかの目標とか将来像とかを見出せないほど現在が混沌としているとき、自分が確認することのできる唯一のものは、現在の原動力のベクトルであって、他が真っ暗闇で何一つわからないという状況に陥っても、それさえ自分の心の中に、火のように灯っているのをこの目で見ることができたならば、自分は希望を持っていいのだと思った。むしろそれさえあれば、他の何を失っても、手探りで進まなくてはいけなくなっても、怖くなることはない。
その一方で、その灯火を見つけるためには、5年先を見るという動作を、まるで儀式のように遂行しなければならないし、そこで、そこには何もないのだという苦しみや恐怖を噛み締めなければならない。けれどその時に起こる現在の自分の変化に敏感でありさえすれば、次の瞬間にはちろちろと燃える現在の心の底に溜まった矢印型の燃えかすに、僕はやっと希望を持つことを許されるのだろう。
らてふ
友人にLaTeXを紹介されて使ってみようと思ったのだが、それよりいいソフトがありそうで探してたら今まで曖昧にしていた言葉の定義が気になりだして結局こんな時間、、、

数式とか構造式書くならLaTeXは必須だと思うけど、これから自分が作る文書といえばおそらくサマリーと論文と発表原稿と自分用のメモと発表用スライドであることを考えると、発表用スライドだけはプロプライエタリなのを使うとしても(それでも同じクオリティのものをTeXから既存のマクロを使って書けるならそっちのほうが管理はしやすいが)、それ以外はいつの時代になっても開けるような、ユニバーサルな規格の、軽いテキストファイルのようなデータで管理したいもの。
というわけで、ユニバーサルな規格でサマリーと論文と発表原稿と自分用のメモあたりをいじるのにちょうどよさそうなエディタ・コンパイラを探しているのだけど。如何せんいろんな規格がありすぎ。

とりあえず行きついたところは「プログラムの関心の分離」という概念。つきつめると全ての要素(2次元の文書なら構造と見た目、とか。)を分離させるのが一番ユニバーサルで、管理しやすいと思うのだけれど、手続きが複雑すぎてそれだけで手一杯になる(一日中コマンドを書くことになりかねない)ので、それをどこまで妥協してまとめるか(どこまでコンパイルされたマクロを容認するか)が問題になるのでしょう。
さすがにXP捨ててDOSを使おうとは思わないしw

実用的な話に戻ると、結局紙に一番近くてデータ容量も少なくできるpdfが安全なのかなぁ?
とすると、pdfにコンパイルできてしまうファイルを生成できるエディタなら、使い勝手だけ考えて、あとはどれを選んでもいいのか、とかいう話になるのだけど。でも最低限WYSIWYG方式ではなくバッチ処理できるものを希望。

普段何気なく、買ったときから入ってたしみんなも使ってるからそれでいいやーと思ってWordとか使ってますけど、改めて自分の使う道具として、それがどこまで適正かを見てみるのもおもしろいかもですね。

結局結論は出ない(汗)けど、TeXは1977年からずっと使われ続けてるんだから、互換性という面でも相当優れてるんだろうなぁ。やっぱ導入してしまおうかなぁ。
どなたか文書についていい案があれば教えてください。
D
最近SKY(スカイ)という言葉を初めて知りました。
Super(sugoi) KYのことらしいです。なんか発音が爽やかですね。潔いのは好き。

そういえばゴールデンウィークと名のつく休みに突入しました。木金は学校行かねばですが。しかも世の中の一部では先週からGWらしく、天気予報とかで「GWの後半の天気は」とか言われるとちょっとむっとします。てかゴールデンというほど休むわけでもないし。ポリクリはないけどさ。

三月に受けた模試の成績が届きました。臨床問題より一般問題の方が正答率圧倒的に高いってどういうことだろう?とりあえず大学受験の時のようにいい成績をとることを目的にするのではなく、やりたい勉強をやりつつ、危なくない程度の位置にいられればいいや。…なんて調子こいてると後で後悔しそうですが。。

数論の本を読んでて、公理系Dというのが出てきて、何かと思ったら下に注で「DはDOUDEMOIIまたはDemigroupのD」とあった。DOUDEMOIIがつぼったのでブログのタイトルに採用。

最近はベートーベンの交響曲5ばかり聴いてる。ラフマニノフも、プロコフィエフも、メトネルも、以前のようにはきかなくなった。ベートーベンかテレマン・クレプスの古典か、カプースチンとかの現代か。最近の録音は継ぎ接ぎでしかも音質も均一に調整されているらしい。だからミスもないのだけれど、やっぱ熱さが足りないのだよ、と思う。そういうこと言うならホールにききにいけばいいのだけれど、ね。行こうかなぁ
カルロスクライバーのWiener Philのを聴いてから、シェルヘンのRTSI Orchestraのを聴くとなんじゃこのありえん音はとか思うけど、Scherchenが振ってると感動する。芸術はちょっとおかしいくらいの方がいい。模範的に素晴らしいものはそのうち飽きる。
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