This is a game.
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
今日はKAPPAで七夕祭に。
結構知り合いがきてましたねー
SFCにははじめていったけど、キャンパスらしいところだった。遠かったけど。

蒸し暑さと人ごみと意味のない喧騒と屋台の匂いと
なんかみんなが浮き足立っているような
何かが期待できそうな、でもそれが叶えられることは決してなかったりする
それでも、いつまでも切望して止まない憧れというか
そんなお祭りの雰囲気を嗅いできました。

関係ないけど、笑いたい時にどうぞ↓


毛が無い
久々に風邪らしい風邪をひいた。一昨日鼻腔の疼痛から始まり、今は喉頭蓋辺りに炎症の中心が移ってきた。咳嗽の多くは後鼻漏によるのだと地域医療で習ったのだが、無駄に実感中。喀痰と鼻汁の色と性情似てるし。

病理のポリクリは最高に毛が生えないかんじなのだが、教科書は相当自分的ツボをついてる。
3年前に勉強した時はつらかった記憶しかないけど、今ロビンスとかを読み返すと結構おもしろい。けど、そんな時間もほとんどないことが悲しいところ。外科では解剖を見直すことがともすると多かったけど、内科では病理を見直すくせをつけとけばよかった。。
そういう目で見ると、病理は未だしも、先輩が5年生の時にヴォート(生化学)を読み直すのがツボだと言っていたのは、相当勉強が進んでいないとできないことだったのでしょう。

そろそろさすがにやばかろうと思い、マッチングの日程を確認した。意外に被っててげんなり。取捨選択。
あぁQBを進めよう進めよう、、

無条件
無条件に○○なもの、というのはやっぱりいいと思う。
見て、聴いて、感じて、だけでよくて、考えて、は潤うべき日常生活において最終手段でいい。尤も考えることによって、今までその対象ではなかった事象を"見て聴いて感じる"対象として扱うことができるようになるのだが。

昨日から読んでる本に、破滅願望は幼少期の禁止令に帰着できる部分がある、とか、派手なもの(精神症状)ほどカモフラージュされていて、本質は実はその呆気ない部分にある、とか書いてあった。読んで、たしかに、へー、とか思うけど、見て聴いて感じることに満足していれば、本当はそんなことどうでもいいと思いたいんだ。きっと。
会話
「君は僕と似ているね。挫折を知らないでしょう」
ー自分なりの挫折の経験はあります
「卒業したらそんなわけわかんないことばっかだよ」

「きっと君はストイックに来すぎたんだな」
ーそうでしょうか

「君、恋愛してる?」
ーえ? pardon?
「恋愛は、してるの?」
ー……

「きっとこれから楽しいよ」
ーそうかもしれません


地域医療が終了。
今までで一番濃いポリクリでした。


2日目に『生物と無生物の間』を勧められた。読んだはずだったのに話が噛み合なかったから、もう一度読み返してみた。

「自然はなぜこんなに美しいか、考えてみなよ。」
ー先生、その前に言語と認識の様式が、、
とは言えなかった。


それとは別に『廃用身』を買って読んだ。やばい。
以下、mixiに載せたレビュー

2005 幻冬舎 久坂部 羊
傑作。全てが深く、重くのしかかってくる。
現実を鑑みた善意の治療、それに対するマスコミの対応、周囲の人間の反応、解ける見込みのない誤解が渦を巻く。完璧に思われたインフォームドコンセントが(現実にありがちな形で)崩れ、そこから始まる主人公の自己分析と、外科医としての本質の自壊と、自殺。
若干説明口調で純文学的には秀逸とはいえないかもしれないが、論理的で読みやすく、かつ実際の臨床現場で起こり得そうな設定、登場人物の設定が余すところなく全体の構成にいい影響を及ぼしているのは見事。


明日はKAPPAだ
空白
地域医療。慣れないからそれなりにえぐいけど、かなりいい先生。
患者が少ないから空き時間にいろいろ話す。本当にいろいろなことを。

この数日間で自分の弱いところを見透かされているのが、言葉の端々でなんとなくわかる。けれどそれを埋めるには、おそらく長い時間が必要であることは自覚できるし、先生も暗にそう言っているように思う。そういう部分に自意識が働くために、それなりに居心地はいいけど結構苦しいところもあり。
埋めることのできない空白を意識したまま人と対峙しなければならないから、突っ張るというと聞こえは悪いが、融通がきかなくなる。余計に、求めている空白は埋まらないし、口をついて出るのはどうでもいいことか、もしくは図らず意味深なことばかり。それに本性をむき出しにするわけでもないから、中途半端に誤解されているようで嫌だ。行き詰まると破滅願望が心の隙間から顔を出す。It's vicious circle.

僕が見たいものは、今立っている位置からは見ることができなそうである。でも多分それは、見ているのだという既成事実を作って、そこから自分の位置を手探りで修正していくより他に解決方法はないのだとも思う。事実を作るためだけに、厳密には自分を偽る必要がある。ここを“偽る”と表現すること自体が事態を悪化させている。だからこそ、そう表現しないために動き出すしかない。そのプロセスに入るための程よいchanceを待つ。


大きな挫折経験があると、人は、他の人が笑わないところでも笑うようになるのかもしれない。その笑いは、健康的に風化されると厭世的でシニカルなものから柔らかいものに変わる。が、そのタイミングは変わらない。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。