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自殺を社会で考えることと、その意味性
ニュースより
「自殺を『語ることのできる死』へ」をテーマに、自殺対策について考える官民合同のシンポジウムが1日、東京都内で開かれた。借金苦で父親を亡くした女子大学生が自分の体験を涙ながらに語り、自殺をタブー視せず、社会全体で考える必要性を訴えた。高市早苗・内閣府特命担当相の「自殺がない、生きやすい社会の実現を目指したい」とのビデオメッセージも上映され、昨年10月の自殺対策基本法施行後、官民が連携して取り組む初の本格的な事業となった。

そこでは、自殺してもOK!という結論が出ようとは、誰も思っていないとして間違いないだろう。単刀直入に、非自殺(自殺禁止)教信者が語り合っても、自殺をしてはいけないという結論しか出てこないと思う。そして彼らが話し合った結果、自殺が「なんで」忌むべきことかについては、実に多様な意見と論理構成がなされ、自殺してもいいと思っている人に突きつけられるだろう。自殺したらおしまいな(自殺という選択すらできない)んだよ、と。周りの人が悲しむよ、と。それで、ああ、思い返してみなさい、あなたの周りの人が死んだら悲しいでしょ、と。これは、ある意味で陰湿な(自殺禁止がマジョリティであることに自信の源を見いだした、「善意」をもった非自殺教信者による)価値観の押しつけである。
「語ることのできる死」を本当の意味でテーマにするのであれば、今まさに自殺をしたい人もいっぱい連れてきてシンポジウムを開くのがよかろう。むしろ参加者のほとんどが自殺志願者の方が、信憑性があっていいのではなかろうか。きっとシンポジウムは混沌として、結論は出ないだろう。社会全体で自殺を考えるとは、そういうことだ。自殺志願者を排除する方向性が暗黙のうちに決まっている前述のような集会を開くのであれば、「非自殺教信者社会での自殺を考える」と題名を改めるべきである。ちなみにこのような宗教的集会に、ぼくは口を挟むつもりはない。その宗教性を、彼らが認識しているのなら。
極論ではあるが、本当にリベラルな方法で、建設的に自殺について考えたいなら、自殺を社会で考える前に、僕は「自殺を個人で考えよう」キャンペーンをおすすめする。いいか、今から頭の中で自殺してもいいかどうかよく考えるんだ。そう、よく考える。それで、現時点でよいから、「現時点で本当の」結論が出たもののみ発言してよろしい。中途半端に発言するなよ。後のものは黙っていろ。発言したら、その場から去ってもよい。それが本会の規則である。と。これじゃあ一生かかっても発言できないかもしれないじゃないか、と批判を受けるだろうが、僕はそこそこ重要なものごとについて本気で考えるというのは、そういう種類のものだと思う。そこで「よくわからない」という結論すら出せない人は、その会場で天寿を全うして然るべきだと思う。むしろそういう人々にとっては、その会合の場からでないで考え続けることこそ、何がなんだかわからないままになんとなく死を選んでしまった、という(死後も生前と同じように判断が可能であるなら)後悔すべき状況をなくす最善の方法なのではないか。社会には善意を持った「非自殺教信者」がうようよいて、自殺しちゃいけないよ、と情に訴えるように、理不尽に諭してくるのだから。一時的な情に流されて出した「自殺しません」という結論は、次の瞬間崩壊する危険性を孕んでいる。情に流されている時間分だけ、無駄である。人生は多分有限なのでである。
別に僕は非自殺教信者を虐げようとしているわけでは決してない。だが一つ言いたいのは、皆、「ものごとには結論がある」と思い込みすぎているように、僕は思う。だからそこそこの思考力を持った、善意のある「非自殺教信者」が量産される。

いつも僕は思うのだが、各種の啓蒙活動というのはどれだけ「意味のある」ことなのか。もっとも何らかの事象に意味があるかないかというのは、最も巨視的な視点で見れば(ゴールそのものがありえないから)非常にナンセンスな議論ではある。じゃあミクロの視点で見れば、たしかに意味があるかないかというのは(ゴールを設定すれば)判定可能であるが、それは設定されたゴールに対する意味であって、そのゴールに意味があるかというのはそれだけの情報では判断不可能であるから、結局意味があるかないかなんていうのは「意味のない」ことになってしまう、、、
こう考えると、「意味の有無」を考えることを放棄しても何も困ることはない。むしろ、放棄することによって「意味の有無」が「有意味か」を考えるという一種のパラドクスから抜け出すことができ、明日食べる御飯のあてを探しに行けるという、生命の維持にとって必然的な行動を優先することができるという意味で(ゴールの設定)、有意味であろう。(というパラドクス)
パラドクスによる言葉遊びはおしまいにしたいのだが、つい指が滑った。。
そう、まぁだから結局のところ、あるものごとの意味の判定というのは放棄してしまっても少なくとも考える原理の面で困ることはない(「社会」生活では困るかもしれないが、個人的生活では困らない)。それじゃあ何に従って行動していけばいいかというと、今まさに自分がどうしたいか、その「意思」とでも呼べるようなものを使うしかないのではないか、という意思を、僕は漠然と持っている。


ちなみに念のため、僕は多分「後悔しないようにしたい」という点に根拠をおいているので、「後悔禁止教信者」とでもいえるのだろう。

あと、現時点で保留状態で矛盾性のあるものは、
・意味性以外の判断基準が明確に確立されていないのに判断を下している点
・自分が自分の行動基準を求める点について
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