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vulnerability
昨日は自分の脆弱性が確認されました。
そこを突かれると無条件に泣きたくなります。まずいのー。
常識というのは極めて暴力的な考えだと思います。大多数がそうするからといって、全ての人がそうするわけではないのですから。本人の予想と相手の行動がかみあわないことに怒ってしまうのは仕方ないし、相手としての自分も何とはなしに申し訳ないかな、と思うけれど、だからといって俺に怒るな。社会にはいろいろな人がいることの理不尽さに怒ってください。
自分もそこで打たれて凹むんじゃなくて、逆に相手を罵倒する強さが欲しいものです。何事も周りに求めるのではなく、自分に求めよ。

解毒完了


ちなみに、そういうときのピアノほど癒されるものはない♪
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コメント
この記事へのコメント
解毒って…毒吐いてるだけで解決してないし。
懐疑の底から抜け出す気はあるんですか?
>常識というのは極めて暴力的な考え
大賛成!でも常識にも存在する理由はある。物事が円滑に進むためにはなんらかの共通認識は必要。知っていることに損はない。相手のことを考えて行動すれば自然とそれに近くなる。
>何事も周りに求めるのではなく、自分に求めよ
罵倒するのは強さじゃない。喧嘩だ。それに相手に求めてるから罵倒することに気付いてほしい。文句を言うのは問題だが、文句を言われる側には必ず落ち度はある。そういうところと向き合ってみてはどうですか?
A/P(アセスメント&プラン)
・他人に怒る前に自分を省みる
・常識を知る(従うかどうかは別問題)
2007/06/02(土) 16:17:10 | URL | philo #-[ 編集]
Thanx.
philoの言葉を飲んだ上で言いたいことを言います。

>常識
知ろうとする努力はあるし、自分の根底にあるのは常識です。ただ、相手にマイナーな自分の考えも知ってもらわないと、メジャーが当然と思われるとマイナー(非常識派)はそれこそ死んでしまうわけです。常識も非常識も一つの考え方として受け入れて然るべき、という考えがあります。これを相手にも求めるわけではないですが。他人のためを考えるのは重要なことだけど、全て他人のために行動していたら、自分は他人のためであって、本当の自分ではなくなってしまう、そういう一経験がある。だから、適切に両者を使い分ける必要があると言いたいです。

>罵倒
相手が自分に求めてくることが、自分にどうしてもできないことだったらどうするか、という問題。
相手の立場は理解可能だが納得不可能なとき、相手に自分の正当性を主張する権利が自分にはある。その権利のあり方をどう主張するかっていうこと。それは話し合いでも良いし、時には罵倒も必要であるということがいいたい。特に相手が感情的なときにはね。

円満にやることだけが生きる道ではなく、時には対立してでも自分の権利を主張することがあってもいいのでは、という意見です。それくらい僕は今まで人に求められたことを断れなかったし、それが原因になって精神的に追いつめられたことがある。その反省を込めた対抗策ということです。

あと罵倒というのは正確には正しくないかもしれない。常識というのは無言でもわかってもらえるけど、非常識というのは言わないとわかってもらえないから、それを明確に伝える、という意味です。
2007/06/03(日) 01:23:09 | URL | かめ #mQop/nM.[ 編集]
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