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試合を見てて思ったこと
医歯薬が今日で終了。
みんながどんどん強くなっていて、ほんと驚いた三日間でした。結局なぜ卓球なぞするのかという答えもほとんど出せないまま一応現役を退いた自分だけれど、自分が練習することで得られること以上に、部員の様子を見ていて得られることというのは大きいとおもいました。

自己中なネガティブな話ですが、自分は四年の夏で練習に出なくなりました。それでこの冬に試合会場に来てみて、周りがすごく強くなっていて、試合で勝って、応援を受けて、そこでpositiveなfeedbackが起こっているのを見ると、卓球部として、そして部員として大成功していて、非常に喜ばしいことなのだろうけれど、自分が少しだけ残念に思われます。自分もあと半年だけ気持ちを切らせていなかったら、その渦中にいられたのではないかなぁ、と(これが思い上がりであることは勿論ですが)思うのです。でもあの夏の時点では本当に限界だったし、今の状況を後悔しているわけでは全くない。けれど少し寂しく、そして残念に思うのです。
自分は今までに、何か大きなカテゴリに対して"諦めた"という経験は殆どありません。そもそもそんなに多趣味でもないし、手をつけていることといっても、細々続けられて他者との関係性が薄くて、競技性の少ないものばかりだったからかもしれません。何事もある意味諦めさえしなければ「なんとかなるのでは」というテーゼが自分の中にはありました。今でもあります。(もっとも試験に関しては諦めてもなるようになる、ということを学びましたがw) この「なんとかなる」というのは曲者で、結果論でものを言う立場からすると原理的に当然なので何も生まれないのですが、経験を帰納的に総合するとそういうことになっていたので、それで満足していたのだと思います。本当はもっと正確な言葉で表現するのがいいのでしょうが、今これについて考えるモチベはないので「何事もある意味諦めさえしなければなんとかなる」テーゼがあったということを便宜上認めた上で話を進めます。

自分が四年の夏で卓球から手を引いたのは卓球自身に関して見切りをつけたからではないので、厳密には卓球を諦めた、というわけではないのですが(卓球部の練習に出るのを諦めた)、(原因は多因子なので省略して、結果的に)卓球を諦めて半年たって印象的なのは、自分は積み上げられてきたものの上に座ることには慣れていたけれど、今、自分が積み上げたものが崩れていって、その破壊の様子を見るのはこんな気持ちなのか、ということです。そしてその自分の隣では、自分が諦めたポイントからまたさらに諦めずに努力して積み上げて、結果を出していく姿がある。この取り残され感、自分もできたのでは、という思い上がり甚だしい残念感というのは、忘れることができない。
それでも救いは少しあって、(非常にいいわけがましいですが)それは自分が卓球自身に見切りをつけて(いわば卓球をknock-outする形で)やめることにしたわけではない、という点です。自分について考える時間の確保、他者との関係性、自分の信念と行為に対して不適合な環境、それらの負の感情が卓球そのものに転嫁されて起こった卓球への不満など、卓球競技そのものとはあまり関係の源を同じとしない点から発した転嫁された諦観に押し出されるようにして"いまやることリスト"から削除された、という経緯がある。特に、卓球を含めて、自分が何かをすることの意義(それは、全ての物事に対して起こる「いろいろ性質があるのはいいけど、じゃあその(演繹的な)本質は結局何よ?」という疑問からくるのだが)を時間をとって考えるための準備をするということは、当時の自分にとって、無くてはならないものだったといえる。行為の意義を考える為に、その意義を疑う行為を中止するのは一つのあり得る選択肢で、しかもそれが精神的に差し迫っていたという厳然な事実を考慮すると、比較的妥当な話ではないかと考えるのだが如何。
それはともかく、自分が卓球部でコンスタントに練習してきた三年半の間に起こってきた一連のできごとというのは、自分がそういう理不尽とでも言えるような(これもまた思い上がるな、という指摘をいただきそうだが)環境において何が必要か、そしてそこで何を大切にしていけばいいのかわかったという点では、結果論的によかったのかもしれないと思う。

今までは試合の度に「何かが違う」と思い悩んでいたのが、そのロジックが漠然と言葉で説明可能になり、それによって次の自分がよりsteadyな様式で生きていく指針が立てられていったというのは、その期間卓球に命をかけて練習するのと同じくらいの意義があったのではないかと思います。後味は違うけれど、とりあえず、考えた結果次に進めたという意味で。


こういう主張を自分で書いておいて、これってなんて自己中心的で自己正当化された思い上がりなんだ、と思うけれど、今回は自分の中で落としどころをつけた内容だったので、そういうものとして認識してもらえると助かります。自己正当化の方法を間違えると、とんでもない人間性が出来上がると思うのだけれど、逆に自己正当化ができないということは、それはまた生きにくい人生を送ることになると思うので、、
というわけで、何か方法にこれPだろってところがあったら指摘してもらえると嬉しいです~


<今後考えてもよさそうなこと覚え書き>
ハードとしての言語(言語哲学、論理学)
ソフトとしての自己正当化
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