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調和の内容
考え続けていれば大丈夫、というのは一通りの事実とよべるようなものだ。後悔しない為には、考え続けていればいい。これは当たり前の話で、後悔自体が考えた結果出てくるものだから、後悔しないように考え続ければ、その延長上にある後悔というのは論理的に避けることは充分可能なのである。だからこそ、考え続けるというのは、性格的に保険的なものである。保険的というべき生き方においてはそれは通用するが、そうでない場合には通用しない。flexibilityは極めて低く、ある広い範囲の行動には向かない。
ウィトゲンシュタインは言葉とその用法に全てを見出したと思うのだが、僕の感覚から言うと言葉には限界があると思う。サンテグジュペリも、そう書いている。
考えることは言語を用いることと比較的同値だから、考えること自体には限界があるのか。考えることと考え続けることは行動の性格が違うから、先ほど冒頭で述べた考え続けるというのはまた違った話になるが。

僕の基本的な考え方では、可能なものは可能だとしてやればいいし、無理なものは無理なものとして、そのように表現するしかない。安部公房も多分似たようなことを言っている。ものごとはそういう性質のもので、仕方のないもの。と、このように考える自分は社会的自分に言い聞かせるのだが、現実を目の前にすると、そんなのでいいのかよ、と思う。そしてそんなのではやっぱり嫌だ、と思った瞬間、"黙って答えが出るまで考え続ける"という方針の鎧を保険適応で処方する。それを原則として数年間やってきて、得られたものも、失ったものは当然のように多い。自分は経験したものの数だけ得て、そして失っている。
そうはいっても、資本主義の競争社会において(プラトニックな恋愛だって考えようによっては資本主義の競争だ)、勝利を得る為には、保険なんて使っている場合ではないのだ、という声が聞こえてくる。まぁでもそれはあくまで、自分が資本主義の競争社会的性格を持っているならば、の話なのだ。(資本主義の競争社会的性格が自分にある、というのがどういう状態なのかよくわからないで言っている時点で、自分は自分に対してちょっと卑怯なのかも知れない?)

僕の周りには、考え続けるだけの人は、あまり見ない。多分そういう人々は社会に出てこないのだろう。僕は僕のこだわりがあって、人が考えないような所謂"当たり前な"ことを考えることがあるのだが、そこを深く考えずに行動する人というのは、僕の周りに少なくとも存在する。そして彼(彼女)らは、僕の得たことのないものを得て、失ったことのないものを失っている。僕はたまに、それが羨ましくなる。それなりに(無駄に当たり前のことを)考え続けていれば、隣の花が赤い、と思える瞬間はいつだって、腐るほどある。そして、じゃあ僕もできるかな、と思って"考え続ける"保険を一寸斬り捨ててみようか、と考えてシミュレートしたとき気付くのは、
自分は、自分を自分に表現する為の稚拙な言葉以外には、殆ど何も知らないということ。僕はそれに対してどういう感想を持ったらいいのかわからない。只そういう現実が目の前にあるだけ。そうして僕は一瞬茫然として、次の瞬間ひたすら目の前の地面を踏みしめるしかないのです。歩行に集中し、特徴のない砂漠の上を歩いていく。水とか食糧とか他に必要なものはあるかもしれないが、それは無いなら無いという性格のもの。それらが必要のない生物だって沢山いるし、そもそも自分は所謂生物みたいに何かを必要とする存在でなくても存在しうる。と、こういうのは考える自分に陶酔してしまった結果なのでしょうか。そういう批判が為されることは多くて、確かに言われてみればそんな風に考える必然性なんて何もないのです。けど逆に言うと、そのように考えない必然性すらないのです。基より言語を他人に理解可能な形で使用した段階で、必然性が言語それ自体によって生み出されているという点、そして何より僕にとって、必然性は人生においてどれだけ重要なものかは評価説明不能だという点からすると、これは他人にはもとより自分に対しても卑怯な議論なのかも知れないですね。

さらに調子に乗って、馬鹿さ加減と知らぬうちの自分に卑怯な精神を丸出しにするなら、もしも、ちょっとしたきっかけで必要かなと思うものが手にはいるかもしれないのなら、それは非常に嬉しいしこの世の幸福かもしれないが、それを入手するために南船北馬するだけの能力と体力とセンスは、絞り出してもたかが知れている。まぁせめて能力体力センスを磨く努力は、完全には放棄しませんが。

そう馬鹿のように考えると、僕が胸を張ってできる唯一のことは、思った馬鹿なことを適当に口にしながら、目の前の地面を踏みしめ続けることだけなのかもしれません。

自分にはそんな馬鹿で不十分で卑怯で、自分でもどうしようもない部分があることを踏まえつつ、なんとかうまく馬鹿でないように生きていければと思いました。我ながら虫がいい。。が、根本がグズグズの上に見てくれの悪くない家を建てようとするなら、こうするしかないのです。できたそれなりに満足できそうな家に住みながら、土台を直したっていいでしょう。そんな土台にまともな家が建つのか、と言われればそれは結果論としか言いようがないから何ともなのだけれど、時間はどんどん経っていくし、考えは行動によっても変化するという理論を駆使して言い訳すれば、この選択は正当化されると思います。同じ土台に立てるなら、差し当たり悪い家を建てるよりは、良い家を建てて住んで土台を修理した方がベターでしょう。まぁ本当のことを言えば、時間が経つのなんて、時間とは何かについて読んだり考えたりしていれば、本当にどうでもいいことなのですけど。本当のことと現実のことにちょっとズレがある点が自分の社会性を維持しているので、ここでは悪いことは言わないでおきましょう。。それでいいのか


そして最後に、
多分、問題の本質を一言で表すなら、ちょっと飛びますが、感覚的には "無知の知" と "できる限りの知" はどちらがいいのか? ということなのではないでしょうか。
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