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めも
例えば多くの人がニュースを見るのは、自分が生きていることを確認するためだという。
それはニュースの語尾に「それでも自分は生きている」をつければ、その文が納得可能な範疇であるからとのこと。たしかにそうかもしれない、と思う。それでも、自分が意味を考えずにやっていた行為を冷静に分析されると、ちょっと悔しい気分になるのは何故だろうか。


ともあれ懐疑主義者にとって、結論が見えていない議論において、何かに意味を見出す発想は、実質的ではあるが本質的に無意味であると思う。


最近、何も考えずに生きることを想起している。

先走ったことを言えば、もしこれが納得可能な次元で実現できたらいいなーと思う。そしたら人生バラ色、うほほーいってかんじになれるな。


何かを考えはじめると、その終わりには必ず自分があって、生がある。そしてそれと同じくらいの距離に死がある。
死をコントロールするために未遂に終わるような自殺未遂をして、毒薬を入手しておく人々がいるそうな。少しだけそういう人々の気持ちが納得可能になってきて、その点若干滅入る。
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