This is a game.
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
描写
安部公房を読みました

高校時代と大学一年くらいの時に「砂の女」を読んで、何が言いたいのか全くわからなくて、以後有名だけど倦厭していた作家でしたが
今日「カンガルー・ノート」を読んだら、すっと入ってきた。
一口に言ってしまうと彼は、自己の内面の感覚にアプローチする能力に劇的に優れた作家なのだと思う。

 僕は邦楽の歌詞というのはあまり好きではない。掃いて捨てるほどあるから好きでないというわけではなく、掃いて捨てるほどある原因が好
きではない。あれらは対象のほんの一部だけ切り取って、それで完結させている。(哲学も対象の一部を切り取って詳細に論じることがあるが、それは論理さえ一貫していれば他の描写も容認する学際性を有している。)平易な言葉で対象を語るうちに曲は終わってしまって、それ以外の世界を容認しない、狭い世界観を感じる。科学は僕にとってあまり好きな考え方ではないが、その科学が容認する普遍性すら、その言葉の中には存在しないのだ。(科学は普遍性を獲得する代わりに理想化を行うから、感覚にそぐわない。科学は"自分が見えている"ことがどういうことか、神経伝達路を説明しうるが、その感覚の実体を説明し得ない。だから僕はあまり好きではない。)現実の世界というのはもっと多様であり、もっと豊かに描写されていい。描写されずに時間が経っていくのは、もどかしくて仕方ないのである。もっとも普遍性であるとか描写可能性を邦楽に求めるのはお門違いという意見が大多数であろうが。僕自身も邦楽の楽しみ方を知らないわけではないし、人の声がもたらす描写能力に関して限界を述べているわけでもない。ただ歌詞というものが、描写能力に関して有限性を有することへの無力感を述べたかったまでのことです。
 そう言う意味で、音楽の中でも言葉を用いないクラシックというのは比較的優れた描写能力を持ちうると思う。少なくとも持つのではないかという幻想は持つに充分である。もっとも描写という意味では作曲家と演奏者の手腕にかかるわけだが。作曲はともかく演奏したことのある人なら、演奏中の、あの曲想に意識全体が埋もれていく感覚というのは、無限の対象の描写可能性を秘めていると直感するのではなかろうか。非言語性の表現はその可能性が開かれているように感じられます。理論性とか普遍性はないから、応用可能性は少なそうだけど。

 軽くまとめてしまうと、冷静に並べた言葉というのは、本当に伝えたいことを伝えるにあたって使い勝手が難しいものだ、ということですね。

と、稚拙な描写能力で直感した対象の一部を書いてみたっす。

莫迦らしい比喩を使うと、魚の生体観察をしたいときに
僕の描写は、魚屋に行って切り身を見るようなもので、一方安部公房の描写は水族館の360度の展望水槽に行くようなものですね。彼の言葉を扱う能力には描写の限界を感じさせないものがありました。
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
歌というのは無線と同じである単一の周波数であって自分の心の受容体(無線の受信機と同じっすね)が受け取りやすい周波数のチャンネルだけを聞いていればよいのだから別に内容が超限局的になっても構わないのでは?
一つのチャンネル(多分アーティストとかジャンルとかという区分)が乗せられるspot informationはかなり限られているのだから、だからこそ世の中には糞から味噌までごまんと“あーちすと”がいてそれぞれにファンがいるんじゃないんですかね?
というか歌いものは全てにおいてその傾向があると思うのですが…クラシックだって現代的なフィルタリングをすれば歌謡曲と変わらないし洋楽だってどの時代の聴いても別に普遍性はないと。
第一普遍性というのは歌が生むのではなく、心の受容体のポリモルフィズムの少なさが生んでいるだけだと思います。
2007/05/02(水) 22:19:48 | URL | しを #-[ 編集]
すごい強引なこじつけだけど、うちの近くに安部公房が住んでて家があって、今は小学校の時の同級生がそこに住んでるw
2007/05/03(木) 00:31:56 | URL | ピクルス #a0J2.lfM[ 編集]
>しを
普遍性というのは歌が生むのではなく、心の受容体のポリモルフィズムの少なさが生んでいるだけ

たしかにそういう部分もあるよね。でも、それだけってのは言い過ぎのような気もするけど。何かを見るときには、対象と見る志向性を有するものの両方の視点をもつのが、僕は好きです。
僕が言いたかったのは、歌詞をつけることによって言語的な枠が作られて、それがプラスに働くこともあるし、逆にマイナスになることもあって、自分はそのマイナスの部分が無力だなーと思う、ってことです。プラスの部分を考えると、しをのいうように、ある部分だけが突出した情感の表現になって、それにファンがつく、っていうことになるんだよね?
クラシックに関しては非言語性故に曖昧なところがあって、だからこそ、表現力に関して、論理的言語を用いた音楽に比べ、その可能性を語ることができるのかなーと思うのだけど、どうでしょう。
あと内容が限局的であることに関して文句とか不満を言っているわけではなく、感想を述べただけなので、悪しからず(^^;) ちなみにその前提として、僕は自分が好きでないものがこの世の中に存在することは嫌ではないので。好きではないものはただ好きではないだけのものであって、好きなものは好きなものであるだけ。そういうものの性質としてとらえてます。ただ好きではないだけで、その存在を否定しているわけではないっす。

>TUNA
そうなんだ~~w
10年くらい前に亡くなっちゃったんだよねー(>_<)
2007/05/03(木) 02:49:20 | URL | かめ #mQop/nM.[ 編集]
あれ?おかしいなwその同級生12年前くらいからその家住んでるけど・・・。でも家庭訪問の時先生が「安部公房の元家ってどこですか?」って近所の人に聞いてたらしいから間違いないと思う。
2007/05/03(木) 22:39:12 | URL | TUNA #a0J2.lfM[ 編集]
亡くなったのは1992か3だから、つじつま合うねー。
2007/05/05(土) 12:20:39 | URL | かめ #mQop/nM.[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。