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今日電車の中で考えたこと
自分が自分の行動を決定する前段階に、自分がそのことを本当に必要としているのか?と考えることはありうる話である。と同時に、その問いの成立自体に疑問を持つこともまた、ありうる話である。
自分はそのことを達成したいと思う一方で、いざその契機が目前に現れたとき、その達成への努力を結果的に放棄していることがある。この態度は、自分が本当にそのことをしたいという気持ちを持っているのかという疑問を提示するのに充分である。

 あることがらに関する答えのようなものを一言で言い表したとき、それがそのことのどこまでの詳細を含んでいるのか、という疑問に対し、その言葉は、文脈を含めても明らかにしない。そのことをふまえると、僕がそのことを必要だと思っている、というのは、ある意味ほんとうかもしれないが、ある意味嘘かもしれない。結局何が本当か、自分にはわからない。(よくわからないから言葉にして考えたのに、結局言葉によってもよくわからないのである。まぁそうするとそもそも本当とは何を基準にしているのか、という問題が上がってきて然るべきで、僕はまだそれに答えることができないから、まだ僕はこの問いに対して答えを出せる段階にないのは当然かもしれないが)
 ただ単に、ぼくは自らその契機を目の前にしたとしても、それを自分の成功に結びつける努力をしないという事実がある。それだから僕が本当にどう思っているかなどは、表せたとしても、それは表せたと了解できる言葉の羅列のみによって達成され、おそらくそれは自分の行動を含む、思考、経験、記憶、そうした自らに属すると考えられる全てのものから注意深く抽出されるべき性質のものである。一言で正確に言うならば、僕の周囲にはそういう事実があって、要するに、ただそういうことなのである。

例えば僕は今、自分の仕事を満足にこなすことができない、メールをすぐに返すことができない、OBに連絡するのを先延ばしにしてしまう。これらは、それだから僕が日頃のストレスか何かで疲弊しているとか、OBとかそういう人間関係というものに疲れてしまっているとか、僕は今まで人の目を気にしてそれを取り繕うために行動してきて、その無理が祟ってボロがでてきているとか、そういうことを表しているのではない。いや、そういう正射影としての像は存在して然るべきかも知れないが、それは決してものごとの本質を表してはいないし、それによってその本態が解決されるかというと、必ずしもそうとは限らないと思う。というか、僕はこうした分析的視点に少しの限界を感じている。

※卑近な例でいうと、円錐を頂点の側から眺めると円に見えて、横から見ると二等辺三角形に見える、という性質は有名だが、その方法で物事を見ていくのは、すこし大変なのではないか、ということ。二次元で円錐をみるのではなくて、両眼視して立体的に捉えることはできないのか、ということ。

言葉によって一つの行動または現象を分析して、その一つ一つをつぶしていけば、結局その行動および現象は望まれる方向に変わることができるのか。そしてさらに、その一つ一つを変えることなんて、果たしてそのような状態の自分に可能なのかどうか、という問題もある。

とりあえず、僕はこのように行動した、考えた。その事象について、言葉によって全ての次元の意味を意味づけすることは、それが完全に達成されたという自覚もとはじめて達成され、それ以外の方法では不十分ばかりか、あらぬ誤解を自分自身に対して生じうる。そして言葉での表現を正確に忠実に行うには、種種の努力を要する。そしてその結果表された言葉一つ一つを検討することで、どこまでその問題に対する解決策が得られるかというと、それはまた別問題であるということ。

そして最後に、行動はどこまで自分を規定しうるのかということ。
あの人はあのように言ったけど、実際はこのように行動したから、じゃあ実際はこういうことなのだ、という理論は他人について分析するとき罷り通る理論で、それは社会においてそうみなされてしまうからにはそれに従うのも一つのあり方だとは思うけれど、じゃあそれっていうのは自分について自分で考えるとき、どこまでありうることなのか。

はぁ、長い。。
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