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メモ
ここ数カ月のもやもやしたものがひとところに集まりつつあって、でも結実はしない。ここで寝たら全てが霧散してしまう気がする。

内部に無理を抱えながらそれなりに体裁を整えてしまう本能がある。弱くて潰れて、また起き上がるほうが楽なこともある。わかっていても、弱くはなれない強さがある。
その閾値を超えるためには、精緻な内部観測が必要。

何かの一線を越えるというのにはエネルギーが必要であることを痛感する。と同時に、一線を越えた人に対して、以前よりも畏敬の念を感じる。それがマジョリティーを捨てる選択をすることであったり、それがたとえ不登校とか殺人とか狂信であったりしても。

須藤元気の『幸福論』を読んだ。彼は四国での遍路の最後に、こう語る。
「勝負に対する”勝ちたい”という飢餓感のような衝動が薄れてきた。(中略)僕が試合に勝とうが負けようが、世界の平和も、他の人の日常生活も微動だにしないという、ごくあたり前の醒めた現実に気が付いた。この時点で、僕はもうアスリートではなくなっていたのかもしれない。」
彼はアスリートとしての生活を継続し、それなりに成功した後、この言葉とともに引退している。第二の人生のスタートである、という予感とともに。

言葉は厳密ではないけれど、にこやかに笑うことは真の自分からの逃避であり、真の現実から自らをすり抜けさせるための社会的に有用な道具である、と思う。
笑わなくても頭を空にして眼をしっかり見ることのできる相手というのは、限られている。

一般的に、飯を食うためには働かなくてはならない。そのためには、少なくとも内部観測をやめなければならない。内部観測をしながらそれをネタに飯を食うとしたら、芸術家か作家になるしかないと思う。

全てを捨てて旅に出て、また戻って来られればいいのにな。
内省には実践が必要だけれど、内省できないくらい実践の幅を厳しく制限する社会性だったら、無いほうがいい。
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