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回想
2月1日といえば、やはり11年前の早朝を思い出す。そのときから11年間、変わらない習慣である。いろいろなものに守られ導かれながら、生まれて初めてやるしかない、と肝を据えた。地平線から伸び上がる橙色の光を埼京線の高架の上でまともに受け、目を落とす直前問題集の文面。あの頃は確かに、何かに夢中だった。何かの厚い庇護の下で。どうやって生きてもいいんだ、なんて思えなかった。価値判断は何かの基準に従って明確で、目指すものは何故か医師だった。それ以外のことを考えるには、経験も、能力も足りなかった。それでも医師になるのだ、というプライドのようなものは常にあった。哲学はよく理解できず、安易に行動指針を提示する倫理学を好んだ。それは、価値判断の基準を明文化したかったからなのかもしれない。高校に入って価値判断にちょっと疑問を持ったけれど、大学受験が終わるまで、先のプライドだけは変わらなかった。

医師行きのエスカレーターに乗った。
乗って4年程して、一瞬アッと思った。それまで積み上げてきたものの直下に穴が開き、構造物がすとんと下方に消えた。そのうち頭の中が真っ黒になった。白色でも、暗黒でもない。全てを飲み込む、明るい黒になった。

理由はわからなくても、進んでしまうものがある。此処に於いてそれはやはり、時間軸に刺さった事象群なのだと思う。それに関連して。過去の選択分岐点に於ける自己の意思がそれ以降の自己に与える影響は、自己の中で時間とともに相対化される、と僕は思う。時間が進んでしまうから、決めなければならないことがある。その決められた事象の意思介在性は時間の進行とともに引き伸ばされ、相対化される。だから大局的に観察したとき、遥か昔のことは昨日のことより妥協できる。さらに自己の意思の必要性に関して、ある意味こだわりがなくなる。生きられる時間が長いほどこの引き伸ばしの効果は高くなるはずだから、長寿社会の現代の方がみんなゆったり生きていてもいいと思うのだけど、現実はかなしい哉、逆?とすると、おそらく、寿命を延ばす動機と意思介在が必要だとする動機が、同じところにあるのでしょう。寿命を延ばすことと意思介在の必要性が動機に於いて同じところにある、ということは、そうか、みんな長生きしたいだけなんだ!


というわけで、デュプロ執筆に戻ります。
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