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易学についてちょっと考えてみた
占いというのは今の一般の人にとって、当たるも八卦当たらぬも八卦、だけどちょっと気になるもの、日常的に情報として入ってくるだけ、くらいのものなのでしょうか。
ちょっとしたきっかけがあって、占いがどの程度「ありうる」ものなのか、科学と比較する形でちょっと考えてみた。

・ひとつの理論体系を作り上げて、それを普遍的に個々の事象に応用しようとする点は、所謂「科学」と同じだなぁ。(ちなみにここは認識論による介入必要)
・その論理体系構築の方法は、「統計学的」に行われると主張する点も、「科学」と同じ。
・特殊な概念を「存在する」と設定し、そこから議論を始めるのも、「科学」と同じ。
・唯一違うな、と思うのが、占いの検証不可能性。科学をどう定義するかにもよるけれど、ポパーの反証主義的にはOK …科学と非科学はこの単一因子では区切れないらしいが、それは現実にどうやっているかレベルの話であって、今回のような概念的な話に関しては反証可能性を検討するかどうかの姿勢があるかどうかで、とりあえず話を進めてもいいだろう、、

というわけで、反証可能性を検討しうるのが科学なのに対し、易学は反証可能性を検討し得ないのか?んーでも易学というのは何らかの方法によって作られたわけで、それを作る過程では反証を繰り返していたのでは?
と、このような憶測(勉強なんてしてないから憶測でしかないところが悲しいが)に基づくと、大きな違いというのは、それを利用する人の姿勢によって生まれているのではないか、と。

・科学は誰でもラボで実験すれば、ある論理体系が"科学的に(自系内の論理で)"「正しい」か「誤っている」かを判断できる。またある場面では、"証明されている"ものを「正しい」ものと信じて行動(次の真理を得るための実験を)することだってできる。つまり、"科学的に真理"とされるものを体系的に構築していこうとする営みそのものが、科学の存在条件?
・一方易学については、基本的にそれを批判的に見る人はいない。正しいとして信じて、それをいかに利用するかが重要になっている。易学を検証し、より"真理"とされる易学を体系的に構築していこうとする営みを行ったら、それは易学としての意義を失う?
※ちなみに「検証」が何であるかを考えたとき、そこには自分と他人の存在の位置づけが必要;認識論が必要

というわけで、それ以外に根本的な違いは見出せないのだけれど、どうなんでしょう。
(この場合の、それ以外の"それ"はそれなりに重要だけど汗)

ちなみに宗教もおなじようなかんじですかねー

あと、自分は「悪い宗教とかにはまりそうで心配だ」って言われることがあるのですが、こういうメタな視点さえ失わなければ、所謂「はまる」ってことはないと信じたいのですが(その代り、一般人よりも強固な認識論が必要…)。。科学を妄信している人だったら、その対象が宗教に変われば、以前科学に対してしていたのと同様の方法で「はまる」ことはありうるし、そのときの力は怖いものがありますが(アーレフみたいに)。

あとあと、結局認識に関することについては完全保留ですな。。



***追記***
ポパーは反証にさらされないものとして、いわゆる精神分析や、占星術、マルクスの歴史解釈を挙げたらしい。まぁ功利的な分類だから、ね、?
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2007/12/29(土) 22:42:34 | | #[ 編集]
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