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核心
心外終了ー、
マニアックな知識が増え、一般的な知識はほとんど増えませんでした。。 とりあえず、弁膜症(特にAS,MR)に対するカテーテル治療についてなら任せてくださいww 今回プレゼンした内容に関しては、姑息的治療の荒治療で、さらに日本で認可されるにはほどとおいとのコメントをいただきましたが何かw そんな教科書にも載ってないようなテーマを選んでくださったのは、先生ですw

 心外では、実学の精神について熱く語ってくれる先生がいました。自分の知識は患者のためにあり、知識とはそのようにあるべきだ、と。時間を割いて、自分がいかにそれを実践しているかを説明してくれました。が、そのように聞き入るべき状況においても、どこか醒めた自分がいました。それは、自分が社会に出る前にいくつか考え残したことがあるからだと思います。まず少なくとも実学の精神を理解するためには、自分の存在を規定する存在論、そして他者の存在を規定する認識論が必要そうです。
 尤も社会で生きるとは、このような疑問を捨てることなのかもしれません。
 僕には今、2つのモードがあります。ひとつは、社会で常識とされていることを常識として乗り越えて、盲目的に生産をするモード。もうひとつは、常識を疑い、社会的に立ち止まるモード。どちらにも捨てがたい魅力があります。
 後者のモードを持つことは、実学の精神のような社会において有用とされる思想を、社会生産の効率性アップに応用できない可能性を示唆します。自分の能力を過大評価するわけではありませんが、もし僕が大学入りたての頃の価値観を持ち続けていたら、もっと自然科学に精通していただろうし、医学もばりばり勉強していたかもしれません。後者のモードを持つことは、ある意味社会的にdisadvantageとなるのです。また、純粋に医師として期待される役割をこなすことにも、困難をきたすかもしれません。周囲の医師が如何に患者をよくするかについて日々悩む中、自分は、患者をよくすることの妥当性について日々悩む可能性があるのです。
 自分の中でいかにこの2つのモードの配分をしていくかが、今後の自分の生き方や科の選択、社会的予後にかかってくると思われます。
 あと、後者の視点に引き摺られる分だけ社会的には後手に出る可能性が高いこと、前者の視点が名残惜しいため後者の視点を充分に吟味する時間をとれないこと、すなわちどっちつかずになることが一番怖いと思っています。すでにそうなりつつありますが。。

 最後に思うのは、自分が将来、慢性疾患で考える時間を持ちながら死ぬのであれば、後者の立場をとった方が絶対後悔しないだろうな、ということです。死というのはおそらく、社会的な経験ではなく、非社会的(個人的)な経験ではないかと。

ま、とりあえず今は試験勉強して、正月にでも寝ながらゆっくり考えますw
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