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社会恐怖
病気は治すもの、という概念はおかしいのではないか。病気はその人の人生の一部であることが、何故認められないのか。と考えていたら、ひとつ当たり前なことに気付いた。
病気の定義:病気は、除去することが社会的に認められた苦しみをもたらす状況である なんですかね?

病気と、そうでない単なる苦痛の間には、社会的な要因しかない、ということ。

でもシゾの人の一部は病院に強制的に連れてこられることを考えると、その苦しみが本人のものだけ、というのでは説明がつかない。
というわけで、病気は、除去することが社会的に認められた、本人および社会に苦しみをもたらす状況である か。

もしそうだとしたら、社会おそるべし。。
自分についてだけ考えるのはやめた方が良いのかしら。でも、他者の存在自体を規定しきれていない現在、いきなり社会について考えるのは厳しい。。
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コメント
この記事へのコメント
「病気」という概念は、社会的にしか定義され得ないけど(「病気」は学会だとか厚労省とかで決まるのであって、個人が恣意的に設定できるものではない)、そうした「病気」を治さないことの自由は、普通に保証されていると思う。

意識(あるいは判断能力)がない場合に、「治す」のがデフォルト設定なのは、仮に意識があれば病気を治したいと考えるだろう人が多数派なので「治す」のが正しい選択だからであって、やっぱりそれ以上の意味はないと思うなあ。

まあシゾとか痴呆についていえば、社会的に迷惑だから、じゃないの?
2007/12/03(月) 12:25:59 | URL | なり #Atv2NnBs[ 編集]
おうよ。冒頭の疑問はすぐに解決しました。僕が考えていたのは、自分の病気ではなく、「医療者として、他人の」が接頭辞としてついた病気についてだったので。でもそれは、医療者は病気を治す役割を負う、というふうに定義すればOK。

僕が不思議に思うのは、病気ではない苦痛を治すことが、ときに妥当ではないと社会的に判断されることなんだよね。その境目はなんだと。まぁそれは病気を上記のように社会的に定義すればn.p.となるのだろうけれど。
2007/12/03(月) 22:28:29 | URL | かめ #mQop/nM.[ 編集]
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