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Look back
ふと見返してみたら、自分がblogをつけ始めて3年と1ヶ月経っていた。ちょうど3年前くらいに、次のような引用をしていた。

「きりぎりす 『風の便り』」 太宰治
作家は歩くように、いつでも仕事をしていなければならぬということを私は言ったつもりです。生活と同じ速度で、呼吸と同じ調子で、絶えず歩いていなければならぬ。どこまで行ったら一休みできるとか、これを一つ書いたら、当分威張って怠けていてもいいとか、そんなことは学校の試験勉強みたいで、ふざけた話だ。なめている。肩書きや資格を取るために、作品を書いているのでもないでしょう。生きているのと同じ速度で、あせらず怠らず、絶えず仕事を進めていなければならぬ。

今読んでもなるほど、と思う。でもその前に、この文章で言う"作家"の部分に当たるものをみつけなきゃいけなくて、それはきっとまだ暫く時間と経験のかかるものなのでしょう。その前段階には、試験勉強も勿論必要だし、今はそういうルーチンをこなさなければいけない時期に入ってきてしまっているようです。

アップライトのピアノは、タッチが悪かった。トーンスポットで音のコントロールがほとんどできないため、気づかぬうちに鍵盤の底を強く押してしまう。明日こそはグランドを。


現実を、自分の感覚と呼べるようなものを、もっと精緻に把握したい。
他人のことといえるような事柄を知ることに関して。知る主体である自分の土台がしっかりしているほど、"望ましい形"で知ることができるのだろうと思う。そもそも望ましいとはどんなものか、そして何故主体がしっかりしていることが必要とされるのかは、合目的的にしか説明できない。それなのに、そこにこだわって生きている。
今まで、そうやって他人を自分から排斥して自我の形成をしてきて、形骸化した社会性を身につけてきて、hedonismに走る危険性を孕んでいるにも関わらず、理由なく社会にしがみついているという嗜好を持つこの自己を、これからどうしていくのだろうか。

数年前と比べて確かに一皮か二皮剥けたかもしれないが、剥けた中にはまた同じような皮があって、ただ枚数がちょっと違うというだけなのかもしれない。皮があるから、という合目的的な理由で皮を剥き続けるという描写は、それを人生とするには余りにも殺風景なものかもしれない。
そして、この殺風景という価値判断すら本質的だと認められない、変な理屈っぽさには辟易するが、まだ暫くはそういう自分に付き合ってかねばならない、と肝を据えているところは、昔と少し違うところかもしれない。まぁ、相当辟易したら変わっていくでしょう。その変わり方は、その時変わるように、変わる。それ以外の方法は無い。
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コメント
この記事へのコメント
太宰治ファン&未来の研究者兼宇宙飛行士?より
太宰君らしくない(失礼)、真面目な内容の文章だねぇ…初めて読んだ。

「肩書きや資格を取るために、作品を書いているのでもないでしょう。」

「生きているのと同じ速度で、あせらず怠らず、絶えず仕事を進めていなければならぬ。 」…か…。

研究者の仕事、人生にも、同じことが言えるんじゃないかな…
2007/10/21(日) 23:11:24 | URL | りょーてぃー #-[ 編集]
たしか、主人公に宛てられた手紙の内容だった気がするw 主人公はやはり不真面目、、

いやー、ほんとだよね。高校大学出て、それで社会に出て、、って大体決まりきってると、生きるってどういうことなんだろうって考えさせられるよねー、、
2007/10/21(日) 23:48:21 | URL | かめ #mQop/nM.[ 編集]
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