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不安と判断
自分は多分、何かに焦っている。胸に手を当てて考えてみると、何かが不安なのだと思う。不安だから、それを払拭しようと焦る。ただ、その対象が何なのかは明確ではない。自分は現状を都合良く呑み込んだつもりでいるし、少なくとも他人と自分に対して、そういう立場に居るようなことを言うことも出来る。けれどおそらく、現実には、現状を確実に説明するには何かが足りていない。なぜなら、現に自分は、不安なのである。そしてその不安は、自分が今説明できるものごとの範囲外の領域から創発している。
ちなみに切っ掛けなしにおこる漠然とした不安は不安障害の一症状だが、僕はそれを器質的要因に還元できるとは絶対に思わない。器質的要因への分類は、イデオロギー的"正常者"側から見た"治療"における功利的利用だけで充分である。本質的には、言葉で説明し得る理由が、まだ本人の言語で開かれていない領域に必ずあると、僕は思う。(尤もこの時点で「理由」を問う推論の形式と性質についての疑問が立ち現れるのだが、詳細はunder question.)

説明云々が足りていないのではなく、元来生きるというのがそういう性質のものなのかもしれない。そう考えると、不安という人生はある意味残酷である、ということも可能である。後で出てくる安部公房は執筆中に「現在と未来の断絶の残酷さに苦しめられ続けた」と書いている。がしかし、「残酷である」と言った時点で、そこで不安に生きることの議論が止まる。「不安に生きることは残酷だ」という総合的な結論。それをひたすらつぶやきながら、生きていくことになる。それはそれで、確かに了解可能な在り方である。(ちなみに、道端に咲く花を見て「わーきれい!」という感想で終了するというのは、この状態にある)

同様に、不安である、と言った時点で、不安に生きることに関する議論は止まる。不安は不安であり、不安以外のものではありえない。それ以外の説明は原理的に、不安以外のもの。「私は不安だ」という総合的な結論であり、議論の終末像として不安という気分があり、その「不安」と何のわだかまりもなく共存していく。謂わば、不安の湯に毎晩浸かっているようなものである。
僕は、自分がそこで止まってしまうのに耐えられないのだと思う。不安の湯に浸かっているのならば、例えば湯の成分を調べたい。湯が自分に及ぼす影響について調べたい。それが適わぬのなら、浴槽の形だけでも知りたい。動機はともあれ、この行為こそが哲学の営みであり、医学で言うなれば精神病理学なのだと、僕は思う。

ちなみにここまで書いて思うのだが、「"この気持ち"を"不安"以外の何と呼んだらいいのだ」と言われれば、それ迄である。たしかに、道端に咲く花はきれいなのであり、私は不安なのである。僕はただその与えられた表現に納得がいかず、自分なりの表現を探したいという強迫的な観念をもっているだけで、おそらくその力動が力尽きる迄、問い続けてしまうのだと思う。それでも、精神医学に於いてはそれが精神病理学という形で病態の記述に役立ってくれるのは、少なからず幸運なことだと思う。




安部公房の第四間氷期を読み終わった。今まで読んだ彼の作品の中では一番感動した。生命倫理感への意識的な冒涜と、それが判断の主体が本質的に存在しないという決定的な理由によって、現実的な時間の流れの中に許されてしまう描写が秀逸。
筆者の、現在の自分の判断能力を超えたものが存在し、その存在はそれ自体が残酷である、という世界観は非常に共感できる。自分が生まれる25年も前に既にこういう考え方があって、それが小説になっているという事実に、生まれて22年と数ヶ月、そして同様の思想を持ったのが数ヶ月前の自分は、なんとも感傷的な気分になる。

判断というのはあくまで一定の立場からの判断であって、価値判断は本当に保留するしかないのだ、というのは大体一年前に自分が至った結論だけれど、それは現在の自分によって正当に評価されている。これで、この考えが自分という時間的に連続な主体にとっての推論的真実であるという可能性が、一年分だけ確実になった。
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