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夏のメモ
原理の追求は必ずしも利便性の追求と同時に行われるものではない。原理を利便性に還元しないという立場も、原理を追求する立場からは必要である。
疑われることのない因果律、前提の擁立、系内での普遍性という観点からすると利便性の追求は科学的に行うのが安全かつ安楽だが、原理の追求は方法論的にこれらとは別問題である。少なくとも前提を擁立した時点で、それ以前の因果律は封印され、封印された因果律と前提は一つの解けない塊となって、その性質はよく明らかにされない。原理は、その塊[エンドポイント]をきついボトルネックとして、原理的に追求されなくなる。(その解けない塊を含んだ世界をうまく説明できる方法が見つかればそれはそれで問題ないのだが、それはおそらく、その塊を教義とした広義の宗教と呼ばれるものなのかもしれない。)
これを科学に関していうと、科学は少なくとも外部観測による方法をとっているため、主観および主観と客観の関係性が一つの大きな塊となっている。だから例えば、自分とは何かとか、少なくとも自己の原理に触れるような問いに固執する人にとって極めて無力なのが現代の科学であると思う。

同様にして、議論のどこかに含まれているであろう「塊」について注目すると、まずは考えている[考える]こと自体について考えている[考える]ことの限界性を感じる。思考はおそらく言語に基づいて行われている(少なくとも正常な思考方法は正常な言語の使用の十分条件である)から、つまりは、言語の様式自体に限界性を感じる。卑近な例から行くと、そもそも言語を扱うにあたって最善の方法である因果とは何か。我々が論理的に物事を考える時、真理を保存するとされるのは妥当な演繹であるが、modus tollens/ponensに代表されるその因果関係とは何か。「とは何か」というのは乱暴な問いの立て方ーーなので難しいが、(思考停止)

少なくとも言語の様式、思考の形式について、我々があたりまえとして嵌っている殻を破るには、Schizoの人から話を聞けば、病理学的に道が開けるのではないかと期待しているのだが、如何。
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コメント
この記事へのコメント
相変わらず難しいことを考えてらっしゃる~。
取材に行くならフォリアドゥーに気をつけてね(かめやんなら大丈夫か)。
2007/09/03(月) 07:17:12 | URL | dodori #-[ 編集]
書くとわかりづらいけど、大したこと言ってないよ、、(>_<)
多分本気で他人に入れ込むとかは、そうないと思うので、大丈夫でしょうww((それでいいのか
2007/09/04(火) 00:07:45 | URL | かめ #mQop/nM.[ 編集]
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