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桃鉄と格差について
「徹夜で桃鉄」が遂行されました。高校時代にそういう概念があるということを聞かされてから早六年、ついに自分は体験したわけであります。終えた後の、それが無力感であることを認めたくないような明白な無力感というのは、そう体験できるものではないでしょう。あー朝日が眩しいよ。なんでこんなに太陽が熱いんだ。社会は働き始めている。
研究室にいて朝日を見ることは自分の体内時計的に結構にあって、そういう帰宅時に感じる朝日には、一応一仕事したというわずかな感動と、これから仕事を始める人と自分とのギャップに少し多くの寂寞感のようなものがあるわけですが、スリとかボンビーのなすり付け合いに脅かされながらの桃鉄15年という長期の試練の後味というのは、試験直前の徹夜明けの爽快感と似たような虚しさが溢れているものです。まぁそれはそんなに描写することでもないですね。。ああ、筆舌尽くし難い。

ちょっと違う話ですが、これも高校時代から感じていたことで、自分よりも理解力のある人というのは絶対に存在していて、そういう人々というのは、同じリソースの処理であっても、物事の捉え方であるとか意識内での処理の仕方、論理的思考における集中力が明らかに自分より優れている。それゆえ年月が経つ毎に、その積み重ねとしての物事に対する考え方、理解の深さというのにはおそらく、指数関数的な開きが出てくる。この部分の能力というのはある程度はトレーニングで向上することは経験済みであるが、そのトレーニングをする機会というのにはなかなか恵まれないものである(ちなみにMCBの講義はいいトレーニングではあった)。とくに、同じコミュニティ内の人々ではこの差を意識することはできなくて、違う集団に属する人と話して初めて気付くことが多い。自分では到底語れないようなことを語っている人の話を傾聴することは、非常にためになるし、そういう意味で刺激になる。議論に関してただ一つだけ、その場では埋め難い障壁があるとすれば、それは、ある一つのことを言うのには、多くのバックグラウンドの知識が要されることであり、それゆえ純粋な思考力以外の要素も発話者に近いものがないと理解が難しいことである。だからより一層、歳を経るに連れて知識量および理解力の格差というのはどんどん開き、気付かぬうちに「雲の上の存在」というのが出来上がるのでしょう。
この「格差」は、一筋縄の努力では克服することは難しく、さらにその努力の方法についてどれだけベターなものを知っているかということについてもまた、どこかで格差づけられている。こうした多段階の「格差」というのは驕ることなく周囲を見回していれば歴然として存在しているわけで、自分はそれを己によく言い聞かせて、その理不尽さを噛み締めつつ、追従する努力を怠ってはいけないと思うわけです。それと同時に、直球勝負だけではなくて、だいたい同じような能力を持つ集団が確立してきた方法論を、そのコミュニティの一員として学び、ちょっと斜めの視点から変化球を投げ込むことへの努力もしないと、社会的に食べていくことに加え、自己満足的にも、いけないわけです、きっと。

清々しい朝です。おやすみなさい。
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