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無条件
無条件に○○なもの、というのはやっぱりいいと思う。
見て、聴いて、感じて、だけでよくて、考えて、は潤うべき日常生活において最終手段でいい。尤も考えることによって、今までその対象ではなかった事象を"見て聴いて感じる"対象として扱うことができるようになるのだが。

昨日から読んでる本に、破滅願望は幼少期の禁止令に帰着できる部分がある、とか、派手なもの(精神症状)ほどカモフラージュされていて、本質は実はその呆気ない部分にある、とか書いてあった。読んで、たしかに、へー、とか思うけど、見て聴いて感じることに満足していれば、本当はそんなことどうでもいいと思いたいんだ。きっと。
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会話
「君は僕と似ているね。挫折を知らないでしょう」
ー自分なりの挫折の経験はあります
「卒業したらそんなわけわかんないことばっかだよ」

「きっと君はストイックに来すぎたんだな」
ーそうでしょうか

「君、恋愛してる?」
ーえ? pardon?
「恋愛は、してるの?」
ー……

「きっとこれから楽しいよ」
ーそうかもしれません


地域医療が終了。
今までで一番濃いポリクリでした。


2日目に『生物と無生物の間』を勧められた。読んだはずだったのに話が噛み合なかったから、もう一度読み返してみた。

「自然はなぜこんなに美しいか、考えてみなよ。」
ー先生、その前に言語と認識の様式が、、
とは言えなかった。


それとは別に『廃用身』を買って読んだ。やばい。
以下、mixiに載せたレビュー

2005 幻冬舎 久坂部 羊
傑作。全てが深く、重くのしかかってくる。
現実を鑑みた善意の治療、それに対するマスコミの対応、周囲の人間の反応、解ける見込みのない誤解が渦を巻く。完璧に思われたインフォームドコンセントが(現実にありがちな形で)崩れ、そこから始まる主人公の自己分析と、外科医としての本質の自壊と、自殺。
若干説明口調で純文学的には秀逸とはいえないかもしれないが、論理的で読みやすく、かつ実際の臨床現場で起こり得そうな設定、登場人物の設定が余すところなく全体の構成にいい影響を及ぼしているのは見事。


明日はKAPPAだ
空白
地域医療。慣れないからそれなりにえぐいけど、かなりいい先生。
患者が少ないから空き時間にいろいろ話す。本当にいろいろなことを。

この数日間で自分の弱いところを見透かされているのが、言葉の端々でなんとなくわかる。けれどそれを埋めるには、おそらく長い時間が必要であることは自覚できるし、先生も暗にそう言っているように思う。そういう部分に自意識が働くために、それなりに居心地はいいけど結構苦しいところもあり。
埋めることのできない空白を意識したまま人と対峙しなければならないから、突っ張るというと聞こえは悪いが、融通がきかなくなる。余計に、求めている空白は埋まらないし、口をついて出るのはどうでもいいことか、もしくは図らず意味深なことばかり。それに本性をむき出しにするわけでもないから、中途半端に誤解されているようで嫌だ。行き詰まると破滅願望が心の隙間から顔を出す。It's vicious circle.

僕が見たいものは、今立っている位置からは見ることができなそうである。でも多分それは、見ているのだという既成事実を作って、そこから自分の位置を手探りで修正していくより他に解決方法はないのだとも思う。事実を作るためだけに、厳密には自分を偽る必要がある。ここを“偽る”と表現すること自体が事態を悪化させている。だからこそ、そう表現しないために動き出すしかない。そのプロセスに入るための程よいchanceを待つ。


大きな挫折経験があると、人は、他の人が笑わないところでも笑うようになるのかもしれない。その笑いは、健康的に風化されると厭世的でシニカルなものから柔らかいものに変わる。が、そのタイミングは変わらない。
断書
動き出さなきゃ、ということで、一部の健全なものを除いて本断ちをすることにした。基本哲学は禁止。置き場がないから、背表紙を後ろに向けて本棚に突っ込む。自分からそれらを取ったら何が残るんだ、と今までは思っていたけど、そもそも今を生きられなきゃ残すものなんてない。

QBが思ったほど進まない理由がわかった。理由はなんであれ、結局は集中力の欠如。出切ってない。

明日から一週間、北の方で実習。
先生がいい人でありますように。
何か得るものがありますように。(見てるだけでも勉強になりそうだけど。)
そして、あわよくば早く帰ってこられますように。(何日かは午前で終わるとの噂w)

お酒がなくても眠れるようになりますように。
銭湯
何もかも止め切ったらどうなるかを実現した体験記(先日感想を書いた本)を読んで、やはり考えるだけじゃだめだ!と少しずつだけど動き始めた気が。友人の「頑張らなくていいよ」という励ましも大きい。

人間の行動は思考の最上の通訳者、と言ったのはロック。(まぁイギリス経験主義者の権威だし、、)
三年前くらいのブログに書いた気がする言葉:認識は実践にはじまり、実践を通じて理論的認識に達すると、ふたたび実践にもどらなければならない。

一夜君と共に語る、十年書を読むに勝る。

今日は新宿歯科医師BLSの手伝いに。久々に動いて何気に腰にきてる(^^;)
その後近くの銭湯行ったので、今日はよく眠れそうです。
壁にはもれなく赤富士が書いてありました。

そういや今日は夏至だったんでしょうか?
冬至はかぼちゃで、土用は鰻で、夏至ってなんだっけ?
どくしょかんそうぶん
「若者はなぜ正社員になれないのか」を読んだ。新書にありがちな的外れなタイトル。内容は全然違う。

覚悟がありさえすれば、やる気は自然に出てくる

の言葉に、思わず首肯。
その覚悟というのは、能動的に今の自分を殺し切る作業だという。
未だ社会の中で生きていなくて、自己と社会を切り離して考えるという共通点からか、この語感はぴったり来た。

筆者の自己欺瞞的な部分が気になったけど、そこを削ぎ落として読めば結構面白い。

①一通りのありうる将来の可能性を(実践無しの内省により)見渡した中で、何もしない(今を生きる)ことを選択して二年間。そんな食べていけない今の状態を辛いと感じて、変わろうとする筆者

②将来に向けて行動を起こした結果、行動の結果得られる安定ではなく、行動しないことによる不安定の中で、安定を探し求める行為そのものに生き甲斐を見いだす筆者

その辺りが自分的なポイント。その辺りに注意すると、結構深いです。
歯科
歯科口腔外科。雰囲気良好。
歯の模型作りは、リハビリの装具よりは精巧で、技術の自己満足が直接患者の満足につながりそうでいい。
歯形をとって石膏を流し、ファントムを撮る(空間の方ではないw)。みんな意外に智歯が残ってる!抜かなきゃだね、と脅される面々。いいのかこんなに楽しさ半分でw

睡眠を強制的に矯正したら、いろいろ回り始めた。よかった~
こういうエピソードを繰り返していく中で、一回一回何かが変わっていく。
現状を打破する能力はこの資本主義・実証科学みんな大好き的世界で生きていくには第一義的に大切なんだろうけど、一度そこに息詰りであったり限界を感じた場合、現状に甘んじる能力も大切なんだなーと。社会にとっていいことと、自分にとっていいことをはき違えると不幸なことになる、というのを、考えちゃいるけど未だ身体に染み込んでいない。(勿論両者が同じだと思える人には関係ない話だけど。)S性とそれに実質的に対応するM性の対立をいかにうまい具合に薄めるか。一時期は自己との対話を意識しない能力。一部の人はこれを堕落とも怠惰とも呼ぶ。確かにそれは社会的な視点からは堕落なんだけど、一個人の視点としては多分違う。生まれた時から生きることに一生懸命でない人なんていないんだよねきっと。そのへんをきちんと分解して、社会でもうまく生きていけるようにチューニングしたいものです。
バランスというのは一つの要素では作れなくて、だから多くのことを見聞していろんな価値観の要素を認識して、相対する二つのものがあったら隣同士に並べてみて、その重み付けをしていくことが、怠惰をわずかながらでも知っている人がこの社会で生きていくのに必要なことなのでしょう。
仕上げ
QB職人に無事復職しました。明日からはまたわからんけど。
病み上がり最後の仕上げにプロコフィエフを流し続けた日曜日。
モーツァルトは偽善に聞こえますよ。

酒に弱い自分ですが、飲む時は強いのをちょっとだけ飲むのが好きなんです。
今日、ウイスキーを買いました。一日の締めくくりに、食道の上皮細胞をぞわぞわさせよう。

先週一週間は随分家の周囲を散歩しました。
自動販売機の位置を把握したり。
鞄の落とし物を交番に届けたり。
何度か、野良猫とにらめっこしたり。

若者たちが殺人予告をしているとか。
そういう破滅願望のある人達は、おとなしく太宰治か柳美里でも読んでましょうね。
しっかりせなー
あーここんとこ病んでるわぁ、いかんいかん。
中脳水道あたりに直径2mmくらいのギラッと光る燻し銀のコイルがあって、そこから側脳室に灰色の煙がギチギチ音をさせながら出るイメージ。セネストパチーだったりしてw まぁ原因は変な時間に寝て起きてることでしょう。
今日やっとQBを解く気になりました。一週間放置。その間に本3冊と聴いてなかったCDを消費。一昨日あたりからどういうわけだかGriegの音が気になってしかたないので、ピアコン以外の音源を入手。そしたら同じのに入ってたウィレンという人のセレナードがツボった。

ああそうだ、最近は柳美里を読んでます。太宰治と同系列。

言葉に対する姿勢の一部に多分自分と重なるところがあって、だから惹かれるのかも。以下抜粋。
日常的な言語のみで生きているひとびとをうらやましく思うことがある。彼らは一様に健康そのものだ。しかしいったん彼らの言語に搦め捕らえられると、私は一語たりとも言葉を発することができなくなる。(中略)ワープロに向かい言葉が立ち現れるのを待つこと、などの世界に逃げ込む。いずれにしろ、私にとっての言葉は、書くことである。(中略)私は言葉によってかろうじて何者かであろうとしている。


ポリクリもどんどん終わっていくなー
来年から心置きなく働けるように、残された時間をしっかり過ごさなきゃ
サンドバック
形成外科だけに小児が多くて、病棟にカルテ見に行ったら、以前精神班で担当していた子に会う。覚えていてくれるのは嬉しいものだけど、その後がいけない。表情筋で無理に作った満面の笑みで腕をつかんで、腹を殴る。足も蹴る。同じところを執拗に。これはただのじゃれあいじゃないな、思う。そして僕は、17年もののサンドバックになる。
サンドバックの顔は笑う。でも多分、目は笑っていないのだと思う。彼は僕の何かを失いたくないかのように、手を離さない。そして、隙をみつけては殴る。

17年前のサンドバックの話。
朝会ってしまうと、アサカ君は満面の笑みで腕をつかみ、腹を蹴り、腕を抓った。僕は帰り道を探して物陰に隠れ、裏門から走って逃げる。ひきつった顔で笑って逃げる。僕の笑いの数パーセントには、今でもその成分が含まれている。

今でもそれが何であるのかはよくわからない。アサカ君の転校とともに、僕がそれと向き合うことを忘れてしまったから。(尤も本気で向き合い続けてきたら、僕はマッチョな体育会系の男になっていたかもしれないw) でも心を病んでいる彼は、今でも僕のどこかに潜むサンドバックを敏感に感じ取り、そこに拳を打ち込む。
殴ることで、何が得られて何が得られないのか、わかってもらえればいいと思う。けれど僕は、それを前向きに教えてあげることはできない。暴力に対し、僕は良き殴られ役であって、自分の社会的な何をも見せてあげることはできない。

僕はただ暴力から逃避し、それに対して有効な手段を何一つ身に付けずに大人になった。そのあたりのことと、僕が現在の身体感覚をこれまで軽視してきたことは、歴史的に有意な繋がりがあるのかもしれない。20歳位まで、僕が現在を捨てて未来を選択することを厭わず、科学に盲目的な憧れをもったというのは、耐え難い身体感覚を有するサンドバック的自分を塗り替え乗り越えるためだったのかもしれない。

(・ω・)/
寝不足だと情動失禁が進む。顔の下半分はマスクで隠れてるから、とりあえず目は笑わないように。

オペ室の端末のスクリーンセーバーが (´ω`)/ だった。

待ち時間にラウンジにいたら、噂話がきこえるきこえる。
オペ看に肩叩かれて何事かと思ったら、知り合いだった。みんな働いてるのねー。
長かったモラトリアムの終点への準備が進む。

新聞部には一気に4人も入部してくれたらしい。みんな真面目そうだし一安心。
あとはマッチングさえ決まってしまえばな~
散歩
実証科学的アプローチで自己の可能性を外的に拡げること
哲学的アプローチで自己の核に内的に迫ること
いずれも必要なことかもしれないけれど、
それにもう一つだけ、大切なものを付け加えるとするなら、
それは、現在の暫定的自己像を感じることだと言いたい。

それは勿論考えることでも得られるだろうけれど、
身体で感じて初めて、しっかりとした厚みを成す。

そういう土台があって初めて、
それを拡げることもできれば、
また掘ることもできる。


そんな周りの人から見たら簡単で、考えなくても当たり前のようにできるはずのことに気付くのに、随分遠回りしている気がする。でも、遠回りは一種の散歩であり、地面を身体で感じることだと信じたい。

今朝は散歩をした。
キター
最近投稿が荒れてますが、あしからず、そんな時期もあります。。

澤瀉久敬の『哲学と科学』を読み終わった。
最後の章が熱すぎた。今の自分にとって一番大きかったのは、哲学と科学の位置づけを見事にしてくれたこと。想定している自己認識のモデルも、自分がここ数年勝手に考えてきたものとほぼ同じだったし!こんなこと滅多にない。 先にチャルマーズとか読んで挫折してなくてよかった。

この本は、もとは3年くらい前にブックオフで見つけて買ったものの、当時は実感が全くなくて初めの方だけ読んで放置してたものなのだけど(今見返すと変なところに線とかひいてあるしw)、この時期に本棚の奥からふと取り出して読んで、こんなにもインパクトが大きいとは思わなかった。自分の本棚にはそういう放置してある本が結構あって勿体ないなーと思ってきたけど、こういう瞬間があると知って、テンション上がりまくり↑

自分の今おかれた環境と自分の考えの不整合は、このまま流されてまぁどうにかなるでしょ的な発想がもはや通用しないところまで進んでいるけれど、その不整合を自分のものにしてうまく対処する可能性が提示された気分。生きてて良かった。
夜のドライブ
車を運転したい。街灯のない真っ暗な高速道路で、自分の限界までスピードを上げる。タイヤは路面を正確に拾い、その振動を誠実に僕の手に伝える。風圧に打ち震える車体の振動は、シートを通して包み込むように僕の背中を震わす。全神経をタイヤと路面の摩擦、車体の角度に集中させる、極度の緊迫感。限界を求めはするが、あくまで自分のコントロール下に。一歩踏み違えると、そこには死が見える。その自分との駆け引きがおもしろい。
あくまで自分との駆け引きであって、そこに他者はいない。

車の運転だけでなく、自分の運転に関してもそれは同様。
自分が外界を認識する様式とその印象。それを極度に鋭敏化させた神経で如何にとらえるか。精緻に、かつ包括的に。そしてそれを如何に自分のコントロール下に置くか。その自分との駆け引きが、おもしろい。

(その意味で、F1ドライバーは作家でありうるが、トラック運転手はサラリーマンでしかありえない。)
メモ
ここ数カ月のもやもやしたものがひとところに集まりつつあって、でも結実はしない。ここで寝たら全てが霧散してしまう気がする。

内部に無理を抱えながらそれなりに体裁を整えてしまう本能がある。弱くて潰れて、また起き上がるほうが楽なこともある。わかっていても、弱くはなれない強さがある。
その閾値を超えるためには、精緻な内部観測が必要。

何かの一線を越えるというのにはエネルギーが必要であることを痛感する。と同時に、一線を越えた人に対して、以前よりも畏敬の念を感じる。それがマジョリティーを捨てる選択をすることであったり、それがたとえ不登校とか殺人とか狂信であったりしても。

須藤元気の『幸福論』を読んだ。彼は四国での遍路の最後に、こう語る。
「勝負に対する”勝ちたい”という飢餓感のような衝動が薄れてきた。(中略)僕が試合に勝とうが負けようが、世界の平和も、他の人の日常生活も微動だにしないという、ごくあたり前の醒めた現実に気が付いた。この時点で、僕はもうアスリートではなくなっていたのかもしれない。」
彼はアスリートとしての生活を継続し、それなりに成功した後、この言葉とともに引退している。第二の人生のスタートである、という予感とともに。

言葉は厳密ではないけれど、にこやかに笑うことは真の自分からの逃避であり、真の現実から自らをすり抜けさせるための社会的に有用な道具である、と思う。
笑わなくても頭を空にして眼をしっかり見ることのできる相手というのは、限られている。

一般的に、飯を食うためには働かなくてはならない。そのためには、少なくとも内部観測をやめなければならない。内部観測をしながらそれをネタに飯を食うとしたら、芸術家か作家になるしかないと思う。

全てを捨てて旅に出て、また戻って来られればいいのにな。
内省には実践が必要だけれど、内省できないくらい実践の幅を厳しく制限する社会性だったら、無いほうがいい。
漏洩と弛緩
久々にPCと格闘。
もうちとハードが充実してるかコマンドが使えるかすれば楽にできることなのに、どちらも微妙に基準を満たしていないために時間がかかる。macはやはり根本をいじりづらいという意味でwindowsと双方向には使いづらい。そしてなんでもアップできてしまうuminは偉大である。すごいよ東大。Linuxかdosくらいやっておけばよかったなぁ。

昨日はやる気がmaxになかったので、dutyでないポリクリは諦めて14時間くらい寝た。勉強も全てoff。おかげで今日の真っ暗なカンファでも2時間眼はぱっちり。意味ない。最後は予演会だったのだけど、英語が速すぎてだれも聞きとれてなかった。助教授の第一声が、「指導教官だれだっけ?」…ガクブル

たくさん寝てやっと少し吹っ切れた感あるが、今日は寝すぎたせいか頭がひどく痛かった。それほど頭痛いわけでもないのにアスピリン飲んだとき、頭が末梢から冷えていくような感触。
今日も帰ってから寝てたら、言葉から現実が紡ぎ出されていくような夢を見た。友達としゃべっていて、その言葉や、概念の言語化されたものがプールされていく。イメージとしては、英会話の訓練でシャドーイングするときに、先行する模範音声が友達と喋ってる内容で、その後に続く訓練者の音声がプールされたもの、みたいな感覚。プールの中にあるのは概念的なものではなく、言葉の、半分くらい文字化された断片。
その言葉のプールの中からある適切な要素だけが抜き出されて、目の前の風景がそれによってデフォルメされていく。
例えば、"お菓子の家、HOTEL、青" だったら、HOTELという青いネオンサインがお菓子の家の屋根の適切な位置に配置されて、次に言葉のプールには"歩く"があるからそれが勝手に取り出されて… そうやって風景が組みかわっていく。
これって自我の漏洩症状? 言葉のプールから無作為に取り出される感覚は、連合弛緩につながるのかな !?

・・・発症してないですよ、一応夢ですからww
でも、もしこれが現実の感覚として実感されたら間違いなく病院行きですな、、
flat and calm
今日は久々に料理らしい料理を。してみたのはいいのだが、卵とタマネギの分量を考えないでやってたら大変なことになったため大量のハンバーグが量産された。

月ヶ瀬から帰ってから疲れがとれない。梅雨に入ったからかな?低気圧の来ている日に、気分が良かったことはない。今日オペ終わって一旦帰ってまたメディアに行こうと思ってたのに、起きたら3時間経ってたとか。QBがほんとうに全然進まないとか。
QBの消化器、やってないと思ってたのに何気に臨床問題80問くらい解いてあって、最初の数問わかるようだったら最初の80は飛ばしてやろうと思ったのだが、いきなり最初の問題で前と全く同じ間違えをして萎えた。

卒アルの個人欄で、「大学生活最高の思い出」がどうしても思いつかない。最低の思い出、20年後の自分へ、とかはすぐ思いつくのに。卒アルに載せるという時点でみんなと共有できなきゃつまらんという前提があって、それに自分の本心が少しは入っていることを書こうと考えると、やっぱり難しい。考えないで漠然としたことを書くという手もあるが。

あ、あと今日先生に何部?ってきかれて、「運動は卓球部です」って言ったら、ああそうかぁ、で話が止まった。それまで術野では快調に会話が進んでいただけに、若干気まずいw 文化系を全面に押し出して新聞部だと言っても、ある意味(政治的に)突っ込みづらいだろうし、その辺は無難にいきたい。KAPPAで心臓止まらないと動けません、くらいのほうがいいのかもしらん。

Keith Jarrettに飽きてきたので、寝る前の読書用にArvo PartのAlinaを買った。寝る前に好きな本を読みながら好きな音楽を聴く、というのが大学生活で一番幸せな瞬間かもしれない。突出してはいないけれど、引き延ばされた穏やかな時間。
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