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うわ
一応形にはなった。火事場の馬鹿力万歳。しかし見事に完徹。。
これから佐野まで取材に行って、帰ってきて発表もどきだぁ。
宇都宮線と両毛線で寝よう。。

それと、先週から社会に顔をつっこんだ気分になっているのだけれど、10日くらい過ごしてみると、随分といろんなことが気になる。もはや悩みはしえないと思うのだが、そわそわした気分、、。
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今から12時間以内に沈める。
一人でやるしかないよのぅ。
気合、気合。
ウロ
ポリクリが終わって、講義期間。HP管理とか事務作業ではなく、外に出るために頭や身体を使うことで忙しいというのは久しぶり。こういう忙しさが終わったときのことを想像して、じゃあ何をしようかと思いを馳せたとき、そこで出てくるものが何であるか、少し前まではなんとなく本、であったわけだけれど、そこを徐々に変えていこうというのが先日からの課題。
久々に"考えない"生活に入り、自分の骨格が依然として弱いことに気付く。けれど、数年前のように抉れるような辛さを伴うわけではないから、とりあえずは我慢することにする。


ウロの講義に出てみた。O教授は、腎細胞癌のLaparoと研究で毎日が楽しくてしようがない、と言っていた。僕の定義的に、彼は教祖だと思った。(社会通念上で言えば、彼はおそらくやる気ばりばりの患者想いの医師だと思う)。先日講義を受けた眼科のT教授は、りんごの丸かじりと落花生の皮と赤ワインと葡萄を種ごと食べて長寿万歳、口角を上げてscientificに毎日"ごきげん生活"であるが、それとはまた違った魅力があった。
小耳
その原理はわからないが、なんかハイになる話が小耳に。
思わず小耳がダンボになりました。五湿布。
簡単に書くと、myCがPでMしたらしい。

そのテンションうほほ~いなかんじで医療経済輪読会のレジュメをさくさく…できればよかったのだが、今日はさっきまでKAPPAの反省会で明日は班員マイナス海外逃亡2人の計4人で温泉へ行く。一人自分の運転を怖がる子がいるので、そのつもりで行こうかと思う。まースタッドレスはいてるし事前に良く調べてあるから大丈夫なはず。

行ってくるようほほ~い…
社会参加
さて、前回の投稿で書いた「フィーリングを鍛える」ことについて。
僕の中では社会参加も、医学の勉強もこれに入る。今まで真面目にやってこなかった分、いろいろつけが溜まっていそうだけど、目新しくて、少なくとも始めのうちは輝いて見える。

昨日は講義に出て、今日は医療政策クラークシップのディスカッションに参加させてもらった。個人が決定するということと社会が決定するということというのは根本的に異なるんだなーということを再認識して、あとは社会が何かを決定するための方法論を、ファシリテータの指示に従いながら追っていく作業。尤も他者の規定が自分の中でできていない状態で議論するから、前提が立ち上がるまでは抽象的な意見しか出せずに、若干苦しかった。あ、あと今日は自分は論理教信者(論理主義者)だった。まぁここを信者じゃない状態で議論したらいつまでたっても政策の話はできないから、仕方ないのだけれど。これは少なくとも数年単位で自分の課題として残るでしょう。ちなみにもう一つ再確認できた点は、自分は、論理学的に正しいこと以外のことについて、自分以外のことを決定することは到底できそうにない、ということ。てことは、そういう制約の中で、これからどうやって社会に参加していくのかを探らなくてはですね。。


哲学的な議論を差し置いて、その前提の上で何かを議論してしまうことは、以前の自分にとっては嫌悪感が強くてとてもできないことだったのだけれど、それが少しできるようになってきたというのは、植物に例えれば、根が以前より深くなって、茎から上を重くしても何とか耐えるようになったという感じでしょうか。久々に社会ついて頭を捻って議論するのは、まるで光合成しているかのように清清しく感じられたものです。
自分が変わった
いつものように投稿を書いていたら、急にばかばかしくなった。

自分が自分に論理的に発言することに対する、ある意味論理的なばかばかしさ。

無意味、ではなく、ばかばかしい。
"無意味"と"ばかばかしい"は、"有意味"と"美しい"が異なるのと同じように、異なる。
ウィトゲンシュタインの言語による世界観は、美しいと思う。

それはともかく。
論理でも非論理でも、少なくとも論理の側からすればfifty-fifty(価値判断不能)なので、これからはフィーリングを鍛えたいと思いました。

興味を持つのは多分どの分野でもいいのだけれど、門外に突っ込むと若干時間的不都合を生じるので、今いる門内にてフィーリングを鍛えたいと思います。
多分今は、なんとなく、そういう時期。

あまりに突然なので、どれくらい続くかはわからないけれど、今までの生活とは少しお別れしようかと思います。思想は保持しつつ、生活を変える。

もしこの話を哲学やってる人に話して、いろいろ議論したら、僕は論理に対するばかばかしさなど感じなくなるのかもしれない。個人の差、情報の格差というのはそういうもので、僕が持っている情報量だけで今何かを判断することは、僕より良質で多量の情報を持っている人からすれば悲しむべきことかもしれない。
けれど、今僕は彼と話すことを選択しないし、それ故引き戻されることもない。だから、彼には僕を引き止めることはできないし、僕も今は、完全には戻ることはできない。何かを"選択した"ということは、そういうこと。

ほんの、ほんとうに小さな力で、僕はあっちの世界からこっちの世界に転がり込む。
イントラ
慶應ICLSにアシスタントインストラクターとして参加。
違う職種の人と話したり、いろいろな教え方に触れることができて、久々に刺激的でした。
KAPPAのイントラマニュアルを作った人々は、すごいんだなーと思いました。
明日はKAPPAの講習会で、そこでも同じようにやるのかー、、まぁマニュアルがあるだけ自分的には少し楽ですが。今日はBLSのイントラを一度見ただけでいきなりやったのでえぐった、、

8時頃買ってきた飲み物の氷がまだ殆ど溶けてない。。部屋が寒いのか、氷に何か入ってるのか、、、
なんかなー
労作時呼吸困難の鑑別疾患と主要症候および今回のケースにおける各疾患の妥当性をまとめろ、という課題が出たのは昨日の午前10時。そこからクルズスやらクルズスやらKAPPAの練習やらで、結局取り掛かれたのが今日の午前0時、提出期限は今日の夜で、今日日中は回診やらクルズスやらあるし、レポート自体はなんかハリソンを使え(先生が言った使うべき参考書の中にはハリソンしか出てこなかった)とか、どうなってるんだぁ~~
しかも呼吸困難?労作時? すげーたくさんあるし、わかりづらいし。。 しかもまとめるのは症候だけだから、なんか片手落ちだし。月曜日祝日で一日減ったのがこういうときには悔やまれるもの。。
将来像
小林よしのり曰く
「日常の中でしっかり生きて、ある程度キャリアを積んで、それなりの覚悟と戦い方を見せて、そのうえで自分のたたずまいの中から、どこかで信用してもらえるものを見つけるしかない。」
 彼は漫画家であり、「ゴーマニズム宣言」においては仏教とマルクス主義の折衷的な素地を持った思想家である。倫理や規範を求めて生きていくことに関して、宗教を信じることはできないが、遠ざけることもできない。そのような彼の立場からの発言は、将来の自分の生き方にヒントを与えてくれる。 しかしそこで描かれる自分の将来像は、おそらく大学病院で行われている医療のフィールドでは現実的にはうまく達成されそうにないものばかり。
 ある意味反社会的な信仰を持つ自分としては、現在の社会で「日常の中でしっかり生きる」ための場所というのはほぼ見つからないに等しい。特に、先端医療の現場では。

…やっぱり一度働いてみないとわからないのかも。今問題となっているのは、そのまず働くのをどこ(どういうコンセプト)にするのか、という話なのだが。
抜歯
親知らずを抜いてきました。さらっと抜けてびっくり。歯に鉗子かけてから数十秒で。残る一本は来週に持ち越し。
なんか自分のは根が深くて、抜いた後上顎洞の粘膜が見えてるらしい。。てか熱いものと刺激物は避けてください、と言われた。まぁそれは仕方ないのだが、仕方のなくないことがひとつ…ヤウが食えない!!!
いやーそれにしても麻酔と鎮痛薬は重要ですね。麻酔神。
功利性から
少し功利的に生きようと思って、エッセンシャルオイルとアロマキャンドルを買ってきた。香りは、シダーウッド・パチュリー・マージョラム。神経を鎮め、食欲を抑えて、社会的生産性を増す。
功利性を求めて、サマリーを少し書いた。卒業へ一歩近づく。

社会と自分とのかかわりは、体験してみないとわからない。体験しなくてもわからない。今自分にできることを、自分で把握することはおそらく、できない。何かを言葉で表したとしても、それ以上の事象を求めることはできない。自分はまるで、論理に絡み取られた言葉の膜を球にしたものの中心の芯にいて、内側から外のことを知ることはできないし、また球の表面より内側の空白についても知ることはできないようだ。 そんな曖昧なイメージはあるのだけれど、時間がなくてそれ以上言葉にできない。だから、感覚もそれ以上進まない。 時間はないけれど、それでも少しずつ、両面性を持って生きていくしかない。

だから、今日は少し功利性を求めてみた。ものごとが、少し進んだ。その分いくらか、自分の内部に歪みができた。それは、いつかどこかで払われなければならない代償として蓄積されていく。それが、自分やその周辺事象を、自分の一部として形成していく。
そういう意味では、自分というのは、時間の圧力によって捻出された概念である、と言える。そう言ってしまうとあたりまえか。でも、敢えてそう考えると、歪みを溜めた分だけそれは洗練されるし、強固になりうる。一方で、溜める方法を間違えると、それは脆いものになる。全ては方法の問題。自分というものが最も安定でいられるような歪みのため方・言葉への昇華の方法を体得することが望ましい。 あーこんなんじゃダメだ。話の筋がずれてくる。本来僕がしたいのは、もっと全体を網羅した、反論の余地のない話。とはいえ、全てを網羅した話を書こうとしたら、前提が数え切れないほど立って、しかもそこから出てくる結論は論理的にあたりまえのことでしかありえないから、それでは若干つまらない。面白い話というのは、論理と非論理の溝をうまく捉えた話なのか。

長くなりそうなので、功利性を求めて寝る。明日集合が7時半とかどんだけ~
卑怯ではない、はず。
歯が痛いので、歯科を予約。どの歯科にするかすごく迷った。自分が現場で研修する立場になってみると、自分程度の軽い疾患で、どの規模の病院、どういう経歴・評判の医師にかかるかを慎重に選ばざるを得ない。
結局、中規模で、親知らずを抜く可能性を考慮して口腔外科のあるところ、通院するからアクセスが良くて、ぼったくられたくないから基本保険診療、大学で暫く研修した歯科医で、大学病院と連携を取りつつ、かつ研修生のいなそうなところを選択。
ちょっと大げさな気もするが、歯科の治療は、万が一良くない治療をされても十年後とかまでわからないことがあるだろうから。

自分が研修してる身で研修生のいなそうなところを敢えて選ぶのは卑怯かって?
いや、んなことはないはず。研修生のいるところには、もっと重篤な疾患に罹って、その高機能な施設で医療を受ける利益が、研修生による不利益を上回ったら受診しようと思う。研修機関ってそういうものでしょう。(てかそこまで不利益があるのかって話にもなるけれど、もし歯が不必要に痛かったら嫌だもの。。)

さて、今日は久々に夕食を友人と。
社会に目を向けている友人が増えていく中、自分もそうした方がよさそう、とは思うのだけれど、現実にはまだそういう気にはあまりなれない。まぁどこに目を向けたとしても、"結局は自己満足だから大差ないよ"という使い古された表現に帰着されるというのが思い遣りのある通説なのだろうけれど。やっぱりちょっと周りが気になる。そしてこの反応はおそらく、KYでない為にも、正しい。はず。。
いろいろ
あー今日は一日本を読んで終わってしまった。でも一冊450pを一度に読んだのは多分はじめて。ちなみに今日食べたものは昼作ったカレーのみw

厳密な議論は抜きにして、今を生きることにもっと全力を傾けるべきであって、過去を振り返るとか、未来を憂うとか、そういうことは基本構造の中に入れないようにしたい、と最近思うようになった。
自分で得たというよりは与えられたという表現が正しいものに関しては、やはり一度捨てて、それから再び自分で得るプロセスが必要なのかも。言葉による受け売りだけでは結局身にならない、というのを、言葉による受け売りだけではなく身をもって実感(笑)。
eyemetrics
明日はお休み。班員で温泉に行こうか計画もあったけど、おとなしく過ごそう。
一年前に買ったメガネをかけると両側側頭筋が緊張してすぐ疲れる。eyemetrics欲しい。

自分の手元にあるものが一番輝いて見えたとき、それをうまく描写することは難しい。
ポリクリは再開した、が。
ポリクリ再開した。なんというか、ばりばりの内科。。
新しい、高い実用性を備えた事象を検索し、それらに対する感覚を鋭くして頭に詰め込み、患者と他愛もない話をすることで過ぎていく。なんとも優雅なpre社会生活。
(ちなみに考えるとは、ある対象に対する感覚を鋭くするような類のことで、考えることによる事実から可能性への対象の拡大は、個体・性質・相関を個別に概念化した後、それらを現実とは違う方法で再結合することによって行われる、とのこと;論哲;きっと暫くはキーであり続けると思う)

 たとえばノボラピッドは、自分に1色のカーテンを敷いてしまったようだと感じる。全体が占領される割りに、その上には何も積み上がらない。それは単に血糖の下降を期待されたものであり、その方法に関して非常に優秀であり得、そしてその先には患者および社会の長寿への欲求があり、それは死という一点から患者を引き抜こうとする努力のみに帰着される。感覚的な話だが、そもそも医学とは何かを概念によって構築していく学問というよりは、事実の集積を横に並べてもてあそぶ学問というきらいがあるように思う。医学を知っても、例えばそれだけでは世界観の構築はできない。そういうものに埋もれていくとき、自分は不安である。100%占領された感覚の先端が、一体どこに向かっていくのか、その先に何があるのかは不明瞭である。行き先はわからないのはいいとしても、今まさにどのようであるかすら危ういし、そこには自分という存在はない。知識は莫大でどこからでも手をつけられ、その代りそこから得られる何らかの可能性は、より開いているように思われる。だが一方で、自分が全体と呼べるもののどこに位置し、どこに向いているのかを規定する因子が頼りない。自分はその海の中でやっていく自信が全くないわけではないが、何かが違う
 人は秩序を求めていて、そのエントロピーは全て石油の消費に帰着される、という対談を読んだ。それに習うと医療の場合、医学という秩序によって生成されたエントロピーは、人の死という形で無限大に発散されているとも言える。系がブラックホールのように開いていていて、その場所に吸い寄せられるのを、とどまるような方向への力を生み出すことで、安定を保っている、というこのイメージは、なんとも儚げであり、穿った見方をすれば滑稽であり、それでも必死にやらないと死に吸い込まれてしまう。そして付きまとう、何かの局所しかわからないことへの不安。
全体を知ってやろう、などと偉ぶったことは言えない。が、幼少の頃にテレビで見た、ETか何かの宇宙もののSFで、宇宙船がブラックホールに吸い込まれてボン!と終わってしまうあの当事者にはなりたくない。せめて傍観者に。その恐怖感が、きっと僕を医療現場への没頭から遠ざけようとする。

あと医学云々だけでなく、僕には、もっと経験が必要だと思った。そしてたぶんそれは、いつだってそうなのだろう、とも。
心臓
実習か何かで自分の心臓を摘出したまま、実習時間が終わってしまい、元に戻らなくなるという夢でした。その後リュックに氷付けにした自分の拍動したままの心臓を持ち歩き、治してくれる病院を探すというもの。八年間見慣れた、古い京浜東北線(全身水色)の線路沿いの道路を走ったりしながら。地元の大きな病院2つで断られ、結局うちの大学病院しか頼めるところはないのか、でも実習で失敗したのを直してもらうのは急性アル中になって救急に担ぎ込まれるのと同じくらいきまり悪いなぁ、と思って躊躇し、まだ心臓動いてるかなーと触った(ちなみに10秒に一回くらい拍動、かなり弱ってきた)ところで目が覚めました。

あー心臓に悪い。。

もうどうにもならないのだという、切実な切迫感を抱えているという意味では、前の夢とつながるのかも。。
リスク
ネットのニュースの見出し「ドコモ iPhone戦略でリスク?」から想起される「電波+リスク」に対し 「Ma△□○al Ha○k▽r ☆ ○×○×リスク!」をイメージする自分は、痛いと思いました。でも俺のせいじゃないYO!純粋に音源に対する興味、というと墓穴掘りそうなのでこのへんで。。

正月は家族と過ごしたり親戚に会ったりして、当初の予定から大分ずれてしまってますが、現況のまとめを。

読んだ本:
日本人の死に時
ドキュメント 精神鑑定
科学哲学の冒険(途中から、残りを)

読んでるもの(読み終わった量):
不完全性定理(半分)
はじめて考えるときのように(数章)
宗教と現代がわかる本(1ページ)
なぜ人を殺してはいけないのか(高1のときに買って以来2度目、数章)
論理哲学論考を読む(二章)
ベーシック医療問題(半分)

とりあえず上記以外に読みたいもの:
「現場からの治療論」という物語
河村次郎著の本たち3冊くらい
音楽の形式

同時平行で読みすぎ。。冬休みあと2週間は欲しい、、(>_<)
明日は近所飲みだそうです!
初夢
実家ではネットをほとんど絶っていたので、これから小出しにしていこうかと。
とりあえず初夢はひどいものでした(笑)

ピアノの発表会で、ステージに立つ自分。練習不足だけど、まぁなんとかなるだろうと思って弾きはじめたものの、始めの一小節位で音が全くわからなくなるという大惨事に。。いくつか見たことのある楽譜が思い出されるものの、頭の中が真っ白になって、これは無理だと思って席を立とうとしたら目が覚めた、というものでした。

5時間しか寝てなかったけど、その後続きを見るのが怖くて眠れませんでした。。
あけおめ
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

今年の目標は、目の前にあることをこなすこと。
夏にマッチング、秋までポリクリ、それから国試とdutyがあるから、満遍なくできるようにほどほどにやらんとなー。

可能性と現実は、やはり分けなければいけないようなので、そのへんも現実レベルの話ではっきりさせたいです。
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