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冬休みメモ1
わかったこと:
今の自分の科学に対する立場は、ファン・フラーセンに代表される反実在論(構成的経験主義)に近いらしい。

検討すべきは:
実在論と反実在論の論点となる認識の仕組みについて・観察について
観念論に対する形而上世界の可能性


これからKen's Cafeでお土産を買って帰る。
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今年を振り返ってみる
明日実家に戻るので、今年を振り返ってみようと思います。

1-3月:OSCEやらCBTでばたばた。初めて雪山にスキーに行く。ブログ移転。KAPPA入部
4-7月:ポリクリ内科のちマイナー。慣れないうちに時間ばかり取られたイメージ。上海に上陸、お腹を壊す。
8月:実験は結局失敗。人生最後のwetの実験になったかも。
9-12月:ポリクリ外科系。足腰口が鍛えられたイメージ。

月でまとめると殺伐としてしまいましたが。
もっと実のあることは流動的で、区切れとかはつけられないかんじでいろいろありました。
実のあることとしては、病院で働くということがどういうことか、なんとなくイメージできたということ。あと、夏に読んだ心脳問題と科学哲学の本から、自分が今後どうやって社会の中で生きるかの選択肢が漠然と示され、それを明確化し、さらに何らかの方向に進むためにはもっと知識が(あとたぶん経験も)必要なことがわかったということ。しばらくは社会に何かを及ぼすことを主眼に置かない方が良さそうであること。それでも再来年は就職だから、逃げ道を探さなければいけないこと。

あと、今年は特に人間関係には恵まれた。そこからいろいろな気付きや発展、充実があった気がする点に、最大限感謝。

ちなみに悪かった点は、太ったこと。本が必要以上に増えたこと。ニコニコ動画のアカウントが24時間使えるようになってしまったこと。

そいでは皆様、良いお年を。


***メモ***
最近の課題は
数論的不確定性原理
言語
認識論
哲学思想史俯瞰
全く進まないQBとSTEP

最後のが一番怖い。。
メモのメタ
メタについてメモした後にメモについて形而上的に語れとなり氏に書かれたので、一応トライ。
とはいってもたいしたことかけない、、

メモの形而上的存在には、ありとあらゆるメモ以上の機能を持つ事象が挙げられる、といってよいのか。
卑近な例では本というあり方はメモの形而上的存在方法だろうし、メモ帳というあり方もそうだし、blogはそのメモのメタ的要素が構造的にわかりやすい形で表出してるのか。

ちなみにメモのメモ、メタのメタについてのリクエストは受け付けかねますw
メモのメモは可能性的に量が膨大になりすぎるし、メタのメタは言語学勉強しないと語れませぬ。

ともかく教養が足りない、というのは大体の共通認識なのでしょう。
メタのメモ
☆metaの限界性
meta転移という考えは、それを起こしまくることでその系を不完全なものにしてしまう。そこで取るべき態度は、ウィトゲンシュタイン的に、ある意味を定義する意味、という視点ではなく、ある意味が"ある"、つまりある意味が描写されているのだ、という態度である。

☆metaについて面白い話
ゲーデルが数学について言ったように、ウィトゲンシュタインが言語について言ったように、metaの論点からは、論理的完全性は求められない。そこで…
検索エンジンで「言葉では言い尽くせない」を検索すると、あるわあるわ。言葉では言い尽くせない・言い表せないはずが、このような表現を結局"使って"いる。メタ言語の為せる業。
…言語とメタ言語は表現の性質が異なるのか?

☆憧れる言葉
The limits of my language mean the limits of my world.
易学についてちょっと考えてみた
占いというのは今の一般の人にとって、当たるも八卦当たらぬも八卦、だけどちょっと気になるもの、日常的に情報として入ってくるだけ、くらいのものなのでしょうか。
ちょっとしたきっかけがあって、占いがどの程度「ありうる」ものなのか、科学と比較する形でちょっと考えてみた。

・ひとつの理論体系を作り上げて、それを普遍的に個々の事象に応用しようとする点は、所謂「科学」と同じだなぁ。(ちなみにここは認識論による介入必要)
・その論理体系構築の方法は、「統計学的」に行われると主張する点も、「科学」と同じ。
・特殊な概念を「存在する」と設定し、そこから議論を始めるのも、「科学」と同じ。
・唯一違うな、と思うのが、占いの検証不可能性。科学をどう定義するかにもよるけれど、ポパーの反証主義的にはOK …科学と非科学はこの単一因子では区切れないらしいが、それは現実にどうやっているかレベルの話であって、今回のような概念的な話に関しては反証可能性を検討するかどうかの姿勢があるかどうかで、とりあえず話を進めてもいいだろう、、

というわけで、反証可能性を検討しうるのが科学なのに対し、易学は反証可能性を検討し得ないのか?んーでも易学というのは何らかの方法によって作られたわけで、それを作る過程では反証を繰り返していたのでは?
と、このような憶測(勉強なんてしてないから憶測でしかないところが悲しいが)に基づくと、大きな違いというのは、それを利用する人の姿勢によって生まれているのではないか、と。

・科学は誰でもラボで実験すれば、ある論理体系が"科学的に(自系内の論理で)"「正しい」か「誤っている」かを判断できる。またある場面では、"証明されている"ものを「正しい」ものと信じて行動(次の真理を得るための実験を)することだってできる。つまり、"科学的に真理"とされるものを体系的に構築していこうとする営みそのものが、科学の存在条件?
・一方易学については、基本的にそれを批判的に見る人はいない。正しいとして信じて、それをいかに利用するかが重要になっている。易学を検証し、より"真理"とされる易学を体系的に構築していこうとする営みを行ったら、それは易学としての意義を失う?
※ちなみに「検証」が何であるかを考えたとき、そこには自分と他人の存在の位置づけが必要;認識論が必要

というわけで、それ以外に根本的な違いは見出せないのだけれど、どうなんでしょう。
(この場合の、それ以外の"それ"はそれなりに重要だけど汗)

ちなみに宗教もおなじようなかんじですかねー

あと、自分は「悪い宗教とかにはまりそうで心配だ」って言われることがあるのですが、こういうメタな視点さえ失わなければ、所謂「はまる」ってことはないと信じたいのですが(その代り、一般人よりも強固な認識論が必要…)。。科学を妄信している人だったら、その対象が宗教に変われば、以前科学に対してしていたのと同様の方法で「はまる」ことはありうるし、そのときの力は怖いものがありますが(アーレフみたいに)。

あとあと、結局認識に関することについては完全保留ですな。。



***追記***
ポパーは反証にさらされないものとして、いわゆる精神分析や、占星術、マルクスの歴史解釈を挙げたらしい。まぁ功利的な分類だから、ね、?
課題
試験おわたー 結果は無難。
いつもに比べて圧倒的に科目数少なかったし、でも直前まで心外のプレゼンでえぐってたし、それなりに密度の濃い一週間ですた。少なくとも4日間は平均睡眠時3時間くらいでもなんとかなることもわかったし。最後は大分アドレナってましたが。それにしても妙にマニアックな知識が増えた。
でも2科目とも、生き方を考える上ではいい材料になりそうです。


今後の自分の課題について再明確化されたこと:
・コミュニケーションにおいて個人的立場と社会的立場のどちらを使うか、分けたほうが建設的? 社会的立場についてもっと積極的でなくてはならない面があるが、それは果たして自分にどこまで可能か。やってみないとわからないが、やる勇気に若干欠けるのは事実…
・混ぜると非建設的な会話になるぽいが、エンターテイメントには悪くはないこともある
・やっぱり言葉の可能性は捨てられない。依存性あり。
・今後どちらの立場をmajorのキャラクターにして生きていくかを、なんとなく方向づけしていかなくてはならない。それは将来の仕事の選択にも繋がる

・なぜ自分が個人と社会の立場を混ぜて話すかというと、それは自分の中でもどちらの立場をとるか決まっていないから。個人的な立場で貫き通すと、僕は社会に出る必然性は全くなくなるが、やはりその選択肢はありえない。だからといって個人的な立場を捨てて社会的な立場だけに立つというのは、自我が不安定なって、それは脅威である。

・以上のことを鑑みると、社会と個人の間の親和性がもっと高いイメージを構築したほうがよいが、そうするには確実に「認識論」についての知識が足りない。
・認識論については心身問題と科学哲学で辺縁を触れてはいるが、やはり足りない。これに関しては周りから攻めていこう、ということにしているので、時間はかかるだろう。
・哲学史の必要性、昔考えてたあたりではフッサールなのか? 
ハートのエース
http://www.youtube.com/watch?v=yQ5rDORBw-s

明日の試問では隣の人が引いたトランプによって自分の問題が決まります。
その中で、ジョーカー的なカードが決められていて、それがハートのエースです。これを引いてもらえば、50個ある告知問題の中から、自分の好きな問題を答えることができる。

今NHKラジオでまさに「ハートのエースがでてこなぁーいー」と。
でてこないかー。

! てか、先生絶対これを狙ってハートのエースを割り当てたに違いない!間違いないww
これに気付いただけで合格にしてくれないかなぁ。
あーなんか筆記微妙。 てかマークシートとは。。
絞殺とか、条件付でマークさせてよ 特に死因のところはどの程度深読みすべきか悩むし。。
出席表は出してたはずだから、試問で拾ってくれることにかけましょう。。

試験終わったら有意義に過ごしたいのーー
法医学の試験10時間前。
眠かったので寝たら、ひどい夢を見た。

自分が数日前までうろうろしてたオペ室で、ばらばらに解剖される途中でした。位置的にS4くらいです。。目の前には、使用済み小ガーゼを分けていれておく、あのくすんだブルーの卵入れみたいなプラスチックが6段くらいに積まれていて、弱弯ケリーかミクリッツが無造作にその上に置かれ、自分はその脇に、意識を伴った肉体の一部として放置されているようでした。

寝るなってことでしょうか・・・ 
病むほど疲弊してるつもりはないのだけど・・・
勉強します・・・
アドレナリン
今回の試験は、いつも前日に一緒にやってる相方が東医体なので、早朝より一人で部室勉。部室のPCに導入されているM○SA○Cをききつつアドレナリンを分泌させる。テンションだけが無駄に上がる。試験の出来は、まぁ普通。2問目は微妙、3問目は、そういう話は嫌いではないがほぼノーケア、というような部分からの出題だった。とりあえず行は埋めたから、それで満足。

YangpaのHeartbeat awayの歌詞を知りたくて検索したが、出てこない。
それに因んで、「あれはやばいから詳細は止めておけ」と言われていたM○SA○Cを調べてみる。シンセサイザーとドラムにうまい具合に絡んだ○○の○がいいんだよなーとか思っていた自分に、引いた。。orz Popは、音だけではありませんですね。。

次は法医ー。気合いれてくぞー
逸失利益
明日は医療政策の試験~ なんか試験という感じがしない。
久々の記述、てか免疫学以来とかじゃないかなー。
用語とかの基礎知識があまり無いという点では、勉強していて生理学とか発生学の感覚。医療政策の内容自体を議論するのは面白いが、それを覚えて20行とかで書くとなると話は別。なんかめんどくさいの一言に尽きる。最近は覚えられないものを一からがんばって覚える必要性がなかったので、余計そう感じるのかもしれない。

てかクリスマスを社会現象にしたのは誰だよ。精神的被害を毎年被るとして民事訴訟起こしたりしてww 相当因果関係が認められたとしても、逸失利益としては24,25日に家の中で過ごすために必要な経費に2日分のライプニッツ係数を掛けたものかしら。逆に外で過ごすよりお金かからないから、払わされそう。

医療政策的には、滅多にない国民的イベントなら、国民の健康福祉の向上に寄与するキャンペーンでもやってみたらと提言してみる。今聞いてるNHKラジオによると、ドイツではチャリティーとか盛んだそうですよ。
ちなみに夕ご飯は、冬至の日に実家から差し入れられたカボチャでした。
転換
医事法。医師が社会的に求められていることが、細かく記載してある。
今更ながらだが、自分は社会の中で生きていくのだと、ちょっと思った。多分だけど、僕はやっぱり社会の中で生きていく以外に方法はないのだと思った。いつのまにか成人して権利が発生したと同時に義務も発生しているらしいし、うまくいけば再来年くらいからは医師法による縛りが加わるらしい。自分の行動は、幾何かの制約を受けていくらしい。そうした中から作られる自分の人格に、幾分かの社会性が含まれてしまうのは、どうやら避けがたい事態であると思った次第。僕がどんなにAであると考えても、Bであると日本国の法律で定められていたら、僕はBとして振舞わなければならない。それが日本で生きるということなんですね。

医師法第一条 医師は、医療及び保健指導を掌ることによつて公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとする。

たとえばこの条文に対して言いたいことは沢山あるが、自分が今後ご飯を食べていくためには、これを遵守しているように振舞わなくてはならない。


人一人の思想を物質の最小単位の性質と対応させ、現在の世の中の状態を、物理学における世界説明と対応させると、人一人の思想を云々するだけでは、世の中の状態を語ることはできない。尤もこの対応は物理学における客観的な観測を無視しているから、自分を世界のどこに位置させるかという観点からすると厳密には間違いだけれど、漠然とした感覚としてはあり。

大きな転換が訪れるかどうかの瀬戸際ですの。。
僕としてはここで転換が起こってほしいのだが、うまくいくかなぁ。
イメージを壊れないように育てて、それに言葉による補修を加えていく作業。
Year Noteの厚み
だーらだら勉強してまつ。
法律勉強してみたいなー。社会の決まりごとを知らないというのは恐ろしいものです。知らないでは済まされない割りに、知ろうと思わないと知ることができない。

虚偽、の定義は認識と事実両方が本来の事実と異なっていた場合に使う言葉らしいです。どっちか合ってれば虚偽にはならないんですね。

あと医療費は別に下げる必要はないと思った。あれは医療費の25%を税金から拠出しているから大変なことになるだけであって、その割合を下げて、保険者からもっと徴収すれば…あとは自己負担増やすか。日本のGDPあたりの医療費は、先進国の中でダントツ低いこと、医療水準は他国の中でトップクラスであることを鑑みても、そのほうが妥当だと思う。でも現実は、日本は平等性を死守しようとしてるから、自己負担を増やすことはもっての外なのでしょう。平等性を保つのは大変だー。

平等というのは適応を間違えると所謂共産主義になって、誰も努力しなくなって社会の生産性が失われていくから、その点怖いと思う。その一方で、日本の生命に対する平等性への強い拘りは、よくそこだけに留まって、他の部分は自由競争を容認しているなーと思う。厳密に考えるとおかしな話だけど、厳密に考えてはいけないのが(=現実を見よ)社会を考える上で大切なのか。現実を見て、厳密に考えないのであれば、何のために現実を見ているのかいまいちわからない。。まぁいいや、、多分考えるには材料が不足しすぎているのはいつものことだし、更には原子の性質という概念を用いるだけでは事象の振る舞いという現象を説明しきれないのと同じように、いくつもの階層の違う視点が必要なのかもしれないし。


そうだ、今回の試験期間は、部室を先輩が使っているので家で勉強している。今まで家で捗らなかった理由を検証してみたところ、机といすの高さの違いではないかと判明。ためしにyear noteをおいて、その上にテキストをおいて読んでみたら、見事にマッチした。試験終わったら、year note分だけ低い椅子を買いにいこう。
核心
心外終了ー、
マニアックな知識が増え、一般的な知識はほとんど増えませんでした。。 とりあえず、弁膜症(特にAS,MR)に対するカテーテル治療についてなら任せてくださいww 今回プレゼンした内容に関しては、姑息的治療の荒治療で、さらに日本で認可されるにはほどとおいとのコメントをいただきましたが何かw そんな教科書にも載ってないようなテーマを選んでくださったのは、先生ですw

 心外では、実学の精神について熱く語ってくれる先生がいました。自分の知識は患者のためにあり、知識とはそのようにあるべきだ、と。時間を割いて、自分がいかにそれを実践しているかを説明してくれました。が、そのように聞き入るべき状況においても、どこか醒めた自分がいました。それは、自分が社会に出る前にいくつか考え残したことがあるからだと思います。まず少なくとも実学の精神を理解するためには、自分の存在を規定する存在論、そして他者の存在を規定する認識論が必要そうです。
 尤も社会で生きるとは、このような疑問を捨てることなのかもしれません。
 僕には今、2つのモードがあります。ひとつは、社会で常識とされていることを常識として乗り越えて、盲目的に生産をするモード。もうひとつは、常識を疑い、社会的に立ち止まるモード。どちらにも捨てがたい魅力があります。
 後者のモードを持つことは、実学の精神のような社会において有用とされる思想を、社会生産の効率性アップに応用できない可能性を示唆します。自分の能力を過大評価するわけではありませんが、もし僕が大学入りたての頃の価値観を持ち続けていたら、もっと自然科学に精通していただろうし、医学もばりばり勉強していたかもしれません。後者のモードを持つことは、ある意味社会的にdisadvantageとなるのです。また、純粋に医師として期待される役割をこなすことにも、困難をきたすかもしれません。周囲の医師が如何に患者をよくするかについて日々悩む中、自分は、患者をよくすることの妥当性について日々悩む可能性があるのです。
 自分の中でいかにこの2つのモードの配分をしていくかが、今後の自分の生き方や科の選択、社会的予後にかかってくると思われます。
 あと、後者の視点に引き摺られる分だけ社会的には後手に出る可能性が高いこと、前者の視点が名残惜しいため後者の視点を充分に吟味する時間をとれないこと、すなわちどっちつかずになることが一番怖いと思っています。すでにそうなりつつありますが。。

 最後に思うのは、自分が将来、慢性疾患で考える時間を持ちながら死ぬのであれば、後者の立場をとった方が絶対後悔しないだろうな、ということです。死というのはおそらく、社会的な経験ではなく、非社会的(個人的)な経験ではないかと。

ま、とりあえず今は試験勉強して、正月にでも寝ながらゆっくり考えますw
イデオロギー
やっと金曜の発表の見通しがついた。。未だ終わってはいないが。。

あるイデオロギーを持つ団体に所属していると、それがイデオロギーなのかそれ以下なのかが判別つかなくなってくる。医学部新聞と赤旗新聞や聖教新聞がそういう意味で同じ階層にあることを、指摘されて初めて気付いた、というのは、自分が充分本学医学部に慣れたということであり、また同時に外から眺める視点を失っていたということである。いくら気品の泉源・知徳の模範とか言ったところで、自己を相対化した視点で見ることすらできないうちに行動規範としてそれを掲げるのは、おそらく本望ではあるまい。

最近とみに眠い、というか体力気力が普段の4割程度である。
目から生気を出すのを止めて、情動変化を必要最低限にしても、昼寝が2時間程度必要である。冬だからなのか、ポリクリの重い発表準備とオペに入ることと試験勉強の3つを同時平行で両立させることへのストレスなのか。

先日買っておいた有森博のCDをiPodにいれた。ロシア化はさらに進化してて、ババジャニアンやらアルチュニアンやらカバレフスキーやら。ババジャニアンのポエムという曲がいい。この年末はこの2枚のCDでのりきろうと思う。
ゲーム
医療政策の試験勉強してて思ったけど、政策決定ってターン制のゲームみたい。医療者の特性、患者の特性、診療報酬制度という係数および情報の非対称性の噛んだ市場原理があって、そのブラックボックスに政策という名のinputを入れると、outcomeが出てきて、そのoutcomeを自分の良かれと思う方向に変えるべく、ブラックボックスを解明すると同時にとinputを改良するかんじ、でいいのかしら。

尤も哲学的な議論を除けば、大抵のことはお決まりのゲームみたいなことだと言うことも可能だから、この感想は稚拙なのかもしれないが。

研修病院をどうしようか考えるときに、必然的に科をどうしようか考える。選択肢はいくつかあって、もしその中からまじめに選ぶなら、進むべき科の現時点での重み付けをしないといけない。ゲームとわかった上で機械論に則ったゲームをしにいく方を取るのか、それともゲームかどうかの判断がついていない未知の領域について、その性質を考える方を取るのか。

最近良く思うのは、大体のことがじゃんけんで決まってしまったらどうなるのだろうということ。何かの評価の重み付けというのは悩ましくて、そこに力を注ぐよりも、決まったことに対してそれを実現させる方向に力を注いだほうがいいのではないか、と思うこともある。
たとえばレポートの課題が二つあって、自分がやりたいと思ったほうを取ったとしても、それがもうひとつに比べてめちゃくちゃ大変だったとしたら、数日後の僕は、数日前の僕を恨むかもしれない。そういうことを考えて何かを決定するのはすごく大変で、だから決まるときは勝手に決まってしまって、後は与えられた中で出せる力を出す、というのもひとつのあり方だと思ってしまうのだろう。自分で決めたことなら大変でもがんばれるんじゃね、という要素があることはもちろん了解済みなのだけれど、僕の場合決めた自分を恨めしく思うことがあるので、それが決める自分に重くフィードバックをかけているということなのでしょう。
まぁレポートの課題くらいならこれでいいけど、ここ10年間住む場所について、竪穴式住居か高級マンションかをじゃんけんで決められたら、それは確かによくないかもしれない。

何かを決定するということは、果てしなく難しく思われる。
土日
昨日はマッチング説明会。病院は、やはり見学しにいかなくてはならないのか。あー
地方基幹の関連か、大学か。

今日は午前中OSCE用のBLS教材の撮影バイト。後輩たちは見て吹かないでください。。
その後メディアで心外ポワポ作成…に時間とられすぎてデュプロ読めない、、、
今回リアルにおちるかもなぁ。

最近なんか調子悪いー。
やうなべ
ついにヤウ鍋やりました!
面子はポリクリ班で~
なかなかいけた!
今家中が大辛臭で換気中。。

入れた具材は以下の通り
はくさい
ねぎ
えのき
とりにく
ぶたにく
うどん
つみれ

以下闇の具材
スパゲッティ: マロニー-like
チョコクロワッサン: 豚角煮-like
シウマイ: soso

あー、なんかつかれた。

掃除して寝よ。
案の定
図書館で勉強する同級生を尻目に、レポートでfeverした頭を癒してから勉強しようと誓って帰宅したものの、案の定、医学教育のHPいじってるうちにこの時間。削るべきは睡眠時間(この3日で30時間は寝ているので。。)。
HPは、やっぱCSSベースがいいと思った。HTMLだけだとtableには限りがあるし、なぜかabsoluteタグで指定した位置がpixel値と絶対ずれるから、まともにデザインできない。あとはもういーや、のせるべき内容をもらって、サーバ取得してからいじる(じゃないと絶対パスの指定できない、)ことにして、それまでは放置!

寝よ。
覚醒
昨日学校でA4に2枚くらいレポートを書いて、USBに保存して、PCには保存しないでlog offして、今日学校にきてみて続きを書こうと開いたら、 ファイルない!!

というわけで、書き直しましたorz
前日2時間で半分くらいしか進まなかったのに、今日はそのincidentで覚醒して前の奴に論文2本参照をプラスして2時間で全部終えますた。気合はいれるものです。。

バックアップは本体にもとろうと強く思った一日でした。。あー無駄につかれた。
炎上前夜~表現と倫理
「公務員が子猫虐殺告白 2年前の日記でブログが炎上」というニュースがありましたが。ネット上で情報を発信するというのは、今やリスクがつきものなのですねぇ。僕が個人的にどうでもいいじゃん、と思うようなことを祭り上げる人々は、結構いるもの。

自分が医者になってからこのブログが個人と結びつく形で発見されて、もしそこに「社会的に許されないこと」が含まれていた場合、それは間違いなく、自分にとって脅威となる。それは現在社会的にOKなことでも、後になってOKでなくなれば、やはりriskとなる。「この医者は医学生のときこんな考え方をしていた、こんなやつに医師免許を与えていいのか」とか書かれても仕方ない。

そのうちこのブログの内容から「機械論的唯物論を否定し、創発主義的唯物論を信じる医者なんてありえん」と祭り上げられても、僕は多分、文句は言えない。僕は事実その通りであった(ある)し、それをどうすることもできない。
(以下妄想)そのうち書き込みの日時から「どうやら授業をさぼっていたことがあるらしい」となって、「○○大医学部の教育の惨状~悪しき伝統」とかいう記事が某○LASHとかに例の写真入りで出て、Du○lo(試験対策本)発行創始者の某氏にマスコミからの電話が殺到、結局僕は大学に迷惑をかけたとかで「依願退職」に追い込まれるかもしれない。ああ、なんてリアル(遠い目)。でも、それが現実に起こりうる社会。

炎上というのは、一つの思想を取り上げて、それをネット上の倫理のふるいにかけて、一つ一つ、個人の発言を検証していく作業において起こる。言論・表現の統制に対する不満から表現の自由が獲得されたのと逆の現象がおきているのでしょう。良く言えば行き過ぎた自由が許された場における自浄作用。

卒業したら一度ブログを全部消去した方がいいのかもしれないなぁ。法医学勉強してると特にそう思う。。紛争を避けるためにすべきこと。

まぁそういうリスク回避も重要だけど、その前に敢えて正面から向き合って気になるのは、現代社会における表現の自由と倫理的規範の比較衡量について。
僕が思っている以上に、世の中の人々は倫理的規範を大切にするのかもしれない。好き勝手書くことが許される時期は、もう終わりなのか。でも極端な話、全てのリスクを回避していたら何も出来ないわけで、そのバランスをうまくとるのが重要なのか。(悪い言い方をすると)社会からの監視の目をいかに交い潜るか。
真実であっても、言っても耐えることと耐えないことがある。一行上の「悪い言い方をすると」以下の文言は、同じことを言っていても社会からはきっと叩かれる。そのバランスを、果たして自分は身につけていられるのか。
「この人にこれを言ったらまずいだろ」という読みは、個人を対象としているから対処しやすいし、結果も目の前で(相手の態度という形で)出るから努力のしがいもあるのだろうけれど、社会という大きな目に見えない対象を相手に「社会にこれを言ったらどうなるか」と考えるのは、またアンテナの方向を変えないといけないのでしょう。
唯物論な社会
パラコート中毒に酸素投与は禁忌だそうです。呼吸困難だったらとりあえずO2投与してしまいそう。@法医

いま読んでる本から:
「機械的身体論が抱えている問題について、日々を忙しく功利的に生きる現代の私たちは、ほとんど反省する暇が無い。ただ、人工世界として組み立てられているこの現代社会にどっぷりとつかり、機械として身体を眺めるまなざしを教え込まれて、それに従っているだけである。
そこでは脳中枢というコンピュータ的機械と、その働きから考えると機械としてはイメージしきれない私や意識が無反省に結び付けられる。(中略)脳の機能全てを機械として記述すれば、やがては「私が実在する部位」もみつかるはずといった、根拠の無い予測に人々が操られている。(中略)遅れて物質科学化された応用技術としての医学が、ようやく手にした遺伝子や分子といった物質的基礎工具に有頂天になって、すべてをそうした物質とその機構で解ける、と吹聴して回っている。」

だいぶ喧嘩売る書き方w でも、自分はこの感覚に賛成。
要は、物質とその性質から、振る舞いという事象を理解しかねるという限界から語られる、唯物論の否定ということだと思うのですが。
とりあえず、複雑系とか創発という考え方にこの限界の突破を期待しつつ、社会性を持つ、すなわち唯物論的に振舞う一方で、自分がどういう立場を支持するのかを社会とは違う場所ではっきりさせたいところです。
懇親会
最後の懇親会でした~、焼き肉食べ放題飲み放題☆ TT produce.
個人的には般外の打ち上げ的要素も。毎日最低9-16時拘束+αは結構厳しかった。
歌舞伎町で店のセレクションは教授らしからぬかんじだったけど、秘書さんの提言らしいし、先生の話もおもしろかったし、文句無し!! この医師不足の科にうちの大学だけ20人も入局するのは、やはりあの人物に惹かれる人が多いからなのかなぁ。その後の二次会で久々のボーリングでは、何故か班でトップの成績ですた。やた! ちなみにTTに「君卓球部らしくないなー、お笑いじゃね?陣内に似てる?」と言われ、、 ん?

明日からまた日常に埋もれた生活を。
書くことで改善すること
久々にひどく腹が立った。
僕は人前では怒れなくて、一人になると憎悪がわきあがってくる。一人で怒っていると、まずは考え詰めることによって怒っている対象への自分なりの解釈が進み、一時的に怒りは増幅する。解釈という論理の感情への転移がsaturateすると、次第にそれは無意味なことのように思えてきて、どうしたら怒りをおさめられるか考えるようになる。言い換えると、どう解釈すればこんなことにならないのか、考えるようになる。
人に対して怒るということが何故起こるかということを考えてみると、それは自分が相手に何かを期待していたことを意味するから、今度からはそれはやめよう(諦観しよう)、という解決方法は、怒りを静める頓服にはなる。けれどふと考えてみると、この諦観が厳密に行き着く先は完全なる孤独であり、それはpracticalに問題のあることかもしれない。
(オペで出血したところを電メスで焼けば血が止まる、というのは正しいし有用だが、それを全身の血管に対して行ったら生きていけないのと同じだ。)

社会生活に必要な最低限のことの中に、他人への依存は含まれる?含まれるとしたら、それはどのようにあるべきなのか。

という問題提起までした。とりあえず怒りは沈静した!
むふふ
小腸移植。なんでもうちでは2例目らしくて、上のほうの先生も術野を覗きに。ということで学生3人は居場所なし、よってオペ室のラウンジで2つのモニターを凝視。必然的に眼瞼下垂、頭部の振り子様運動に引き続き、意識消失。お互いに橋網様体賦活を試みるも奏功せず、time tripを繰り返す一日でした。
それ以外には、オペ看さんたちの噂話がムフフでした。むふふ。

あと今日から先週お世話になりまくってた先生を含むオーベンクラスの先生方が部署総入れ替えでした。
ん? 僕は何も言ってませんが、なにか?
社会恐怖
病気は治すもの、という概念はおかしいのではないか。病気はその人の人生の一部であることが、何故認められないのか。と考えていたら、ひとつ当たり前なことに気付いた。
病気の定義:病気は、除去することが社会的に認められた苦しみをもたらす状況である なんですかね?

病気と、そうでない単なる苦痛の間には、社会的な要因しかない、ということ。

でもシゾの人の一部は病院に強制的に連れてこられることを考えると、その苦しみが本人のものだけ、というのでは説明がつかない。
というわけで、病気は、除去することが社会的に認められた、本人および社会に苦しみをもたらす状況である か。

もしそうだとしたら、社会おそるべし。。
自分についてだけ考えるのはやめた方が良いのかしら。でも、他者の存在自体を規定しきれていない現在、いきなり社会について考えるのは厳しい。。
鍋やりたい
11月は何も考えずに過ぎてしまったなぁ。時期的にそろそろ医学を勉強しなきゃ、というのは少し寂しいことかもしれないけど、つまらないわけじゃないし、今後生きていくためのツールだから仕方ないよね、というのが最近の感想。このバランスが崩れると大変なことになる(全く勉強しなくなる)ので要注意。。

一昨日なり氏と話したところによると、今の自分の考え方では時間の概念を満足に説明できないことが判明。あとそれなりにニュートラルでいるつもりでも、哲学的思考に入る前に考えていたこと、すなわち自分の哲学の出発点が今でもどこかに残っていて、それが哲学の方向性に大きな影響を及ぼしているらしいことも。
今度鍋やろうって言ってたけど、思想鍋でもやろう。

結局自分がどうするのかを考えて結論を出すことは、哲学的には無意味であるにもかかわらず、実生活ではそれが表出する唯一の有意味なことであるというのは、なんとも面倒くさいものです。
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