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task
最後のBは呆気なかった。できるなーを連発し、自分に順番が回ってくる頃には相当どんまいな空気に。班員に感謝ですねww
考え方だけをきいてると教育する気はあるんだなーという思いが伝わってくるけど、どこをどう捻るとああなるのかわからない。まぁいいや、とりあえず変なプレッシャーからは解放された。

その代わりに次のObstericsでは、早期のPIHとかいうやりにくいテーマで、しかも教授のいるカンファでの発表となりました。PIHの機序はわかってないんだとか。わかってないものを探すのはorz。そして論文読むと教科書読む時間が減るので萎える、。。せっかくなのでリサーチ&プレゼン能力向上のためにがんばろうかと。。市中病院で研修するならそういう機会は少ないだろうしね…

阿部公房は10冊目に到達。
あと最近の朝はシューマンの交響曲1を。元気のある曲ってdepressionのときにはよくないと言うけれど、シューマンは例外。depressionとかmanicではなかったとしても、Schizoだったからでしょうかw
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月曜の朝が来たー
そろそろBから解放される。
性格の悪い魔人ブーには二度と関わりたくない。意味なんてもともとないのだけど、奴は意味がわからん。演じているとしても程がある。

昨日はKAPPA講習会でした。もっと勉強しないとです。マニュアルだけじゃなくてせめてガイドラインくらいは、と思うけれど、練習が始まってからだと時間が取れない。六年生は今回で最後だったし。そろそろ上がいなくなると思うと寂しいですね。

いつもの話ですが、全てが「そのように僕と呼べるものが認識するもの」である世界では、全ての価値判断は自分の存在に帰着され、本当に特別なものなど何も無く、ただ"そういうものである"との認識を避けられないが、それにもっと慣れ親しんで、そういう虚の中にある豊かさのようなものを見出したいな。阿部公房なんかはその辺うまくやってたのだろうと思う。題材が明らかにSchizoに偏ってるのは倫理的にちょっとと思うけど。。
今日は久々にリサーチ系のセミナーを聞きに行った。少しずつ研究の世界は進んでいるのですね。少しの時間しかいられなかったので、目新しいことは一個か二個くらいでしたが。
その後帝国ホテルで父親の還暦祝い。台風でした。

もはや神経をすり減らして考えることは放棄して、鈍感であろうとしているのだけど、どこかで歪みが生じているのがわかる。ストレスは気分のむらを作り、それでも昇華されないと身体化される。
自分を誤魔化さなければならない環境から早く脱したい。そう思っても、それが実現され得るのはどんなに早くても前期研修の終わる三年半後。それまでにやれることはやっておこうと思うけれど。医療を行う環境の中では比較的academicな環境にいるから、贅沢いうなってかんじではありますが、いつ溜まっているものが外部に流出してしまうか予想できないところが怖い。

明日はKAPPAの講習会ーー
昨日は外病院でした。空気を読むのに疲れた。それでも年の近い同じ大学出身の先輩がいると、空気が同じでほっとする。
そこで常勤で働いている人々は大学で働いている人々とはいろんな意味で違う。自分にとって社会に出て働くことそのものは、手段であって目的ではないのかも。それがひとつの結論として出ただけでも、疲れた甲斐はあったのかもしれない。
久々に新宿のエルトリートで夕食。ここのプリンは、もはやそれはプリンではないくらいに美味しいのです。あとハロウィンの仮装が素敵でした。コウモリの羽を生やしたり、かぼちゃのかぶりものをしたり。
中から
よく考えたら、今週の日曜はKAPPA講習会でした。。PBLとった意味茄子。

結局は、何かの外から見ると、それは批判的に思えてきて、中に居てやっていると、それは楽しいように思える。
一度外から見ると本質的ではないと思うことでも、その中に浸って一生懸命やれば、それは外から見る視点さえ捨ててしまえば、すごく意味のあることで、生き甲斐になるのかもしれないな、と思いました。
そういう意味で、内科という選択肢は捨てないでいようと思う。外から見る視点を捨てられれば、多分そちらの方が居心地は良いだろうし、社会的にも妥当に違いない。

明日は川崎の某病院。ひたすらオペとの情報あり、、
無題
おとといのsRH+BSOは7時間半、外に出たら既に夕焼け。ヒラメ筋よくがんばったってかんじ。
昨日のATHはささっと終わって2時間弱。その後カンファ&Bクルズス。進行期分類と、CDDPは腎毒性でhydrationと答えて、Bに君できるね~と言われガクブル。。できる発言されたのはこれで二人目なのだけど、これが試問でどう出るのか。しょっぱなにムられてるからな~

昨日と今日で睡眠時間19時間、、
週末鬱になる傾向があるので、日曜日もPBLをとった。一人で家にいるのが一番よくない。疲れたら寝ればいいから、生産性は確保しないと死んでしまう。。

どうせ二択があってどっちでもいいなら、虚構の塊でもいいから楽しそうな方にいくのもありなのかなーと思う今日この頃。
ぐつぐつ・・・
煮詰まったー
さっぱりわからぬし、説明がつかない。整理しようにも頭の中が飽和していた、ので、散歩に出た。先々週の週末もたしか同じようなことをしていた。

この飽和した感じには、上に凸の二次関数の極値にいるような、不安定な中での安定感が伴う。
歩きながら、一点に神経を集中させる。歩くというのは、ひとつのリズムを強制的に作り出すから、何かを考えるにはいいに違いない、と思う。もやもやした相手との関係を整理したいなら、一緒に登山にでも行けばいいのではないかと思う。お互いが位相の異なる非線形の集合だって、同じリズムで一緒に歩けば、どこかで協調現象が起きるに違いないのだ。

結局、自分が何をやりたいのかはわからない。自分がやっていることが、どういうことなのか、納得できない。これから生きていくことの、イメージがまったくできない。それでも、明日はオペに入らなきゃいけなくて、レポートを仕上げなきゃいけなくて、夜になって、考える間もなくまた朝が来る。ステップを読まなきゃ将来は保証されないし、QBは来年までに解かなきゃいけない。
そういう明日以降が決まっていること自体に、問題の本質はあるのだろう。きっと明日以降ほんとうに何もしなくて良くて、真っ白の状態だったら、また考えることは変わってくるに違いない。でも、今の僕はそういう明日以降の予定から逃れることは選択しない。理由なしに。選択するかしないか、の二択で、僕は予定(+)を選択しただけなのだ。それが為に、今僕はこのような混乱の中にいる。
…とりあえず今日ソシュールを買ってきたので、年末に読もうと思う。

仕事は、とりあえず考える暇のある科でやりたい。考えることが仕事に繋がるような科、、、
Look back
ふと見返してみたら、自分がblogをつけ始めて3年と1ヶ月経っていた。ちょうど3年前くらいに、次のような引用をしていた。

「きりぎりす 『風の便り』」 太宰治
作家は歩くように、いつでも仕事をしていなければならぬということを私は言ったつもりです。生活と同じ速度で、呼吸と同じ調子で、絶えず歩いていなければならぬ。どこまで行ったら一休みできるとか、これを一つ書いたら、当分威張って怠けていてもいいとか、そんなことは学校の試験勉強みたいで、ふざけた話だ。なめている。肩書きや資格を取るために、作品を書いているのでもないでしょう。生きているのと同じ速度で、あせらず怠らず、絶えず仕事を進めていなければならぬ。

今読んでもなるほど、と思う。でもその前に、この文章で言う"作家"の部分に当たるものをみつけなきゃいけなくて、それはきっとまだ暫く時間と経験のかかるものなのでしょう。その前段階には、試験勉強も勿論必要だし、今はそういうルーチンをこなさなければいけない時期に入ってきてしまっているようです。

アップライトのピアノは、タッチが悪かった。トーンスポットで音のコントロールがほとんどできないため、気づかぬうちに鍵盤の底を強く押してしまう。明日こそはグランドを。


現実を、自分の感覚と呼べるようなものを、もっと精緻に把握したい。
他人のことといえるような事柄を知ることに関して。知る主体である自分の土台がしっかりしているほど、"望ましい形"で知ることができるのだろうと思う。そもそも望ましいとはどんなものか、そして何故主体がしっかりしていることが必要とされるのかは、合目的的にしか説明できない。それなのに、そこにこだわって生きている。
今まで、そうやって他人を自分から排斥して自我の形成をしてきて、形骸化した社会性を身につけてきて、hedonismに走る危険性を孕んでいるにも関わらず、理由なく社会にしがみついているという嗜好を持つこの自己を、これからどうしていくのだろうか。

数年前と比べて確かに一皮か二皮剥けたかもしれないが、剥けた中にはまた同じような皮があって、ただ枚数がちょっと違うというだけなのかもしれない。皮があるから、という合目的的な理由で皮を剥き続けるという描写は、それを人生とするには余りにも殺風景なものかもしれない。
そして、この殺風景という価値判断すら本質的だと認められない、変な理屈っぽさには辟易するが、まだ暫くはそういう自分に付き合ってかねばならない、と肝を据えているところは、昔と少し違うところかもしれない。まぁ、相当辟易したら変わっていくでしょう。その変わり方は、その時変わるように、変わる。それ以外の方法は無い。
ぎねのすてっぷ
ギネのSTEPは進めた割りに知識が増えてない気が。新たに加わった知識が即座に当たり前のこととして認識されるのは、その科に関して親和性が高いということなのかなぁ。雰囲気は悪くないと思う。

スタジオの予約をしたら、10時半までグランドは一杯だって。みんな発表会シーズンですか、、 とりあえずこれからアップライトだけど行ってこようかと。

明日は卓球の試合の応援に行くつもり。

あ、あと巨人負けそうですね。その頃には家を出てるので、瞬間をラジオで聞かなくていいだけましだけど。
おぺ
昨日はさいたまの病院で、今日はうちの病院で、立て続けに手洗いでオペに。さっそく手が荒れた。がさがさ
今日は教授の腹腔鏡。大変そうだったけどすごい。自分は下から微妙な角度を調節する役割に。画面はハイビジョンだそうですw ちなみに写真はプリクラと呼ばれます。
単純だけど、とったら治っちゃうってすごいなぁ。

土曜日よりやる気の出ない人で集まろうという勉強会を開始。続くといいな。無言でたむろってだらだらやりたい人は声かけてください。
Heavy burden
バイトの引継ぎ完了
二年半前の、あることで若干えぐっていたちょうどその日に、やらないかという電話を先輩から受けたバイトでした。懐かしい。。
HP管理は、半年くらいは手を貸しながらになりそう。

一年生と話してて、生きる強さのようなものを感じた。何でも機会があればできるし、いかなる可能性をも秘めている、そういう類の強さ。自分の考えたことをストレートに前に出せて、たじろがない強さ。
自分はそこからプラス四年間生きてきて、自分にはできないこと、得意なこと、意外になんとかなること、どんなにがんばってもどうにもならないこと、そういった基準を自分の中に作り上げてきた。その堆積したものたちというのは非常に重くて、社会の適切な位置に自分を置くには確かに必要なものなのだけれど、これらを背負っているという意識は、自分の生きる強さのようなものを削ぎとっていった気がする。

手に入らないものを欲しいと思ったとき、どうすればいいのでしょう。
とりあえず、勉強を捗らせる一番のファクターは、恐怖心だということが明らかになりつつある今日この頃です。
ぎねころ
いやなプレッシャーがかかった中でGynecology開始。
オペ見てたり患者と話してるときはいいのだけど、それ以外の時間で無駄に精神的に削れそうで怖い。

昔はみんな打たれ強かった、らしいけど。
今は昔ではなく、今である
気持ちはわかるけど、そこは是非理解していただきたい。。
パワハラはほんと勘弁、、、
スケッチ
何かを読むたび、価値観が変わり、認識の様式が変わる。その中で、不明瞭だったものの輪郭が少し見えてきたり、逆にそれまでは見通しのついていたはずのものが、今後どうなるかさっぱりわからなくなったりする。今まで大切で手放せなかったものがどうでもいいものとなり、はたまた、どうしても手に入れなければというものも新たに出てはくるものだ。

内省的思考について。そこにただある論理構造を掘り下げ、その地層に刻まれた模様を言葉として解釈する。その作業が終わると、掘り下げたという事実は無意味なものになっていて、掘り下げたがゆえに残っているはずの"上の階層"にある平面は消えている。言葉という梯子によって上の仮想平面に辿り着くことはできるが、その平面に再び降り立つことはできない。このようにして、過去の自己は現在の自己との隔たりを作る。
この階層構造は、僕の中では時間的に有限なはずで、あるところまで掘り下げるとそこには何百という長方形の板のようなもので形成される平面が存在する。長方形の板からは長い一本のくねくねしたオブジェが生えていて、上の階層へと向かっている。長い板はその平面内でするする動いていて、その動きは一種の自我の統合作用をつかさどっているようである。板が動くたび、その上についたオブジェも一緒に動いて、その上のさまざまな平面内で他のオブジェと相互作用する。そうしてできた要素は上の階層へと抽送され、社会層において発現する。ちなみに情感とは、地層に刻まれる性質のものではなく、この作用によって立ち昇る性質のものである。
これらの板の平面の下には"最後の"階層があって、それはポリマーのような均質なものでできている。ここには、意味だとか解釈だとかを排除した、純粋な自己の存在様式を規定したい。

内省的な思考によって照らされる時間軸に刺さった自己の、照らし出される部分は、その幅も長さも伸縮を繰り返す。将来の自己像を描いてはみるのだけれど、明滅が激しすぎて混沌としている。
小児終了
小児科終了。
最後にちょっと回診抜け出して、乳児検診も見学しました。子供かわいいわー。4才の子に紙でできたハンバーガーをもらいました。紙切れにぐちゃっと書いたやつを糊付けしただけのものだけど、結構そういうの好きなので、白衣のポケットに入れたままですw

昨晩はポリクリ班で飲み@うち
なかなかおもしろかったです。気を遣わない相手、冗談の通じる相手というのはいいものです。とくに医学ネタ、ステージ分類とかオペ適応の話で腹を抱えて笑える飲み会は他にはそうないでしょう。

今日はこれから予診、夏休みと精神科でボトムにあったテンションが小児科に入って少しあがってきたので、このままなんとなく波にのっていきたいところです。こういうとき重要なのは、なんとなく、ってとこ。気合の入れすぎは禁物。
姿勢
ものを吸収する姿勢の違う人、とらえかたの違う人に会う。同じことをしたら、自分は多分、少し良い方向に変われるかもしれないな、というような人。
なるほどそれはいいと思って記憶するのだけれど、それがその後活かされるかはわからない。なぜならそういう姿勢のようなものは、それをやっている最中はなかなか意識できないものだから。活かされないとするなら、残念。
自分は果たしてそういう人とどれだけ出会えるのか。そしてどれだけ活かしていくことができるのか。それも、ひとつの能力な気がします。それだけに、出会いは大切にしたいもの。
転移
所謂"受容、解釈、脱転移"の繰り返しが自分の中で起こっていて、その行為が生きることの楽しみの大部分であるかもしれないと思う。脱転移を起こす直前というのは大抵鬱だし、つらいイベントがあることが多いのだが、脱転移後に得られる安心感というのは、何物にも代えがたいものがある。それは明日以降の生活にまみれて長くは続かないけれど、癖になる温かさを持つ。
かなり前からこの思想はあったのだと思うけど、この三つの言葉をさっき知って、これほどぴたりと収まるとは、さすが精神療法の用語である。

ちなみに一昨日の深夜に比較的大きな脱転移が発生したので、ちょっと元気になりましたw

自分は少なくとも外界もしくは自己の一部に対して無意識に転移を起こしていて、それをいかに受容解釈し、転移から自由になるかが、多分自我のvulnerabilityを決める。
転移を最小限にすることは、自分が説明できる対象を最大限にすることであり、安定性からしても、自己の存在を規定する立場からも、望ましいあり方なのだろう。

医者は穴に落ちた患者を助けようと思って、同じ穴に落ちても良い、のぼってくるはしごを用意してあるならば。らしい。
連休3日目
気分と身体の状態が調和していない。
気分が、身体の状態を変えることで気分自身を変えようとしているのか。。そんな合目的的な話はいいや…

CDを回すとMDの部分がシュコシュコいって、スピーカーからブーンっていう雑音が入るようになったので、コンポを見に行った。高いし、選ぶのが面倒くさくてカタログだけもらって帰ってきた。Appleから何かいいのでないかなー。音質はVictorだと思ってたけど、ONKYOってのもよさそう。SonyとPanasonicは買わない。音漏れを気にして音量絞って聴く環境では、そんなにかわらないかもしれないが。

そのほかCDゲット。やはりプロコ。交響曲1,5。5がいい。
あと、地味に歌曲に目覚めそう。ラフマニノフとグリンカの歌曲集。Vocaliseとひばりが入ってたので購入。


久々に量子力学の解釈問題の本を読み返してみる。もっと強靭な思考力があったらなぁ。。要所で重要な文脈がワーキングメモリーから抜け落ちていって、それがある一点を思考中に戻ってこない実感がある。文脈は大切なのに。

結局勉強は連休初日以外は捗らず。明日からは小児科復帰で、病棟では小児精神をみれるかもしれないから楽しみである。感染でも抗生剤の勉強になるから、どちらにしても当たりは悪くない。
だいく
NHK-FMで第九が流れてる~~
もうそんな季節ですか~
去年の今頃は医管が第九やってましたね~

今日は雨らしい↓
ってもう降ってるし、、

洗濯物!!Σ(゚д゚lll)
11月は得意ですか。
今日はやたら勤勉でした。
掃除も洗濯も料理も勉強もしました。
友達で、金木犀というタイトルの日記を書いている人が二人いました。
季節が、変化している。
この間の回診で助教授に「11月は得意?」ときかれた。1秒考えて「得意です」と答えた自分。多分、どの月を聞かれても、考えた末同じように答えたと思う。季節に得意も不得意も無い。夏には夏の悩みがあるし、冬には冬の悩みがある。どの季節だとしても、自我の外の変化と自我の内側の変化の相対的干渉が重要なのであって、今の僕にとっては、内側の意識されない部分をどれだけstableにできるかが問題なのだ。それが昔に比べてうまくなってきている点から、得意である、と答える。
よくある話だが、自分を意識と無意識に分けて見てみる。自分がどうにもその場ではコントロールできないのは無意識の側。無意識の振れ幅というのは、自分が意識して行動・思考を変えることで、唯一、変更可能である。どの部分を意識するか・どの部分が変更のトリガーとなるかは難しい。意識していない部分を意識の白日の下に曝すのには、新たな気付きが必要になるから。これは運動とかピアノとかと同じで、例えば身体のどこかに無駄な力が入っているというのは、いろいろな部分に意識を向けてみて初めて気付くことであり、ただ漫然とこなしているだけではわからないもの。

あたりまえのことに疑問をもってみること、いろいろな体験をしてみること、そして自分の内側の無意識の部分の変化に敏感であること。僕が一年中、主観的に調子よく生きていくのに必要なことは、実はこれだけなのかもしれない。
5時間半
5時間半立ちっぱなしyeah!!
1時に始まった回診が終わったのは6時半でした
まぁたしかにクオリティの高い、学ぶべき点の非常に多い回診でした。特に教授はさすがでした。が、半分にして2日に分けてやって欲しい。。最後のほうは集中力切れてたし。しかも最後の病棟で申し上げで、原稿はいきなり取り上げられるし。

なんかうまくいかない一週間でした。何かが空回り。
今朝思い立って計画を立てたので、週末うまく回せるといいです。
予定・見込み
今日は回診。申し上げの原稿を作る。
噂のTT回診につき、5時間の予定。

カルテ書くのとかは、その気になれば多分そこそこできるはず。今気になるのは、系統だった知識が不足していること。「そういえばそうだった」的な知識はなんとなく増えていくが、確実にそうだといえる知識が少なすぎる。不快である。

遠い他人を自分に組み込めない見込みが立った。それを知るにしては効率的過ぎる経験ではあったが。メールでのcommunicationは、自分には無理。メールでの、というのが本当にそれだけに限定されたものかはわからないが。Scientificにはメール(-),それ以外の手段(+)およびメール(+),それ以外の手段(+)が試されねばならぬが、どちらかというと宗教的主体である自分には、現在やる気(±)のファクターが加わるため、scienceの実現は叶わぬ見込み。やる気は、帰納法的に考えて(++)くらいでないといけないだろう。

土曜日を楽しみにする元気が金曜日の朝に残っているのは、いいことだ。週末はピアノを弾きに行こうと思う。
まずい
食欲増進、過眠、特定の理由なき憂鬱。
今日は午前中あきらめて、いいわけを考えながら寝る。

今から行かなきゃー、
しょーに
病院で、他の多くの科と違う患者に会うのが、精神科と小児科だと思います。3才の子とか、何考えてるかよくわからないし、完全に未知の領域。
血液の急性期の病棟。小さい殆ど何もわからないうちに病気になって、注射やら薬の副作用やら、遊びたいところをベッドで拘束されるとか、理不尽だなーと思います。彼らはどこまでそのことを飲み込めるのか。自分がその時期にそうなっていたらと考えると、やりきれないものがある。

疾患の話。癌はプロトコールがしっかりしていて、結果の評価も規定されててわかりやすい。もっともこれは近年のガイドライン制定とか臨床試験の組み立ての改善とかによって、最近そうなったものなのでしょう。特に血液。誰が見ても同じ診断になるし、しっかり勉強さえしていれば、選ぶべき治療法も殆ど変わらない、という側面が強調される疾患だと思いました。

あと停留精巣の画像診断がカンファで出てきて、放射線科の先生が話していった。イメージが少し変わった。
4時間
仕事にしろ信頼関係にしろ、はじめはまじめにやるのだけど、そのうちいろんなことが重なったりして疲れてキャパオーバーして、形だけになり、まわりも徐々に愛想を尽かしてきたころに何故か復活して、当初より仕事のクオリティが上がる。いくつものパターンで、言えていること。
一時期はほんとメールとか大嫌いだったのに、ここ数週間は特に何も感じない。さすがに30通来る日はいらいらしますが。
こういう時期には逆に絞めておかないと、後になって苦しむので、いつもよりタスク受け入れ口は狭めておかねばと。どこかでしわ寄せはきているものですから。

自分が三年後に進む科についてぼんやり考える。小児の回診は4時間かかった。これでも短縮バージョンらしい。長いのは難点だが、教育熱心。科は、ある程度絞ったら、あとは過ごし方と環境なのかなぁ。
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