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流出
今日は夕飯を友達と食べた。
その足で学校に行って、蝿が多くて携帯の電波届かないところで、Dubin式をしこしこ。4時間で60ページ。早く終わらないかな、、次のをやりたい。


今まで気持ちのどこかで燻ってせき止められていて、整合のうまくいかない具体的な事象が、自分の過去を振り返る方法での意味づけをしたところ、きれいに流れ出たような気がした。こういう瞬間というのは、生きててよかったと思える瞬間のひとつだ。まだかなり多くの矛盾を孕んではいるが、少しでも自分の輪郭を、自分の知覚・表象で明確化できるように、日々省察していくのがやっぱり、いい。そしてそれを外に伝わるように言語化して、ちょっとでもいいから新しい論理の組み合わせを生み出していければいい、と思った。
社会的には、それが疾患の治療に結びつけば、なお良い。
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いろいろ。
なんだかぐちゃっとしてる。
今日は、まだ二週間回って見れていなかった脊椎のオペを見た。あ、オペがぐちゃっとしていたわけではなく。オペはいつもどおりトカトントンでした。音はトカトントンでも、太宰の書いたトカトントンとは比べ物にならないくらい充実感ありましたがw
夜、一ヶ月ぶりくらいにピアノを練習しに行った。弾いている最中の感情の表出と自意識の配分が下手だから、遂次録音して修正していく。音が駄目なのはわかるが、どうしたらいいかわからない。長期的展望に基づいた現在の設定が漠然としすぎているのだ。当たるのは短期的展望のみ。才能無き故、そして中途半端故。才能も努力も両方足りないから、どうしようもない。まぁそれでも中途半端に楽しめるからいいのだ。そこは妥協できる。音楽は、生活を少し豊かにするもの。
でも勿論、自分が音楽を作ること以外に、妥協できないものだってある。生活を修飾するような位置づけのものではなく、生活そのものといえるようなもの。

今の自分について考えるとき、自分が成長してきた過程を振り返らざるを得ない状況がこのところ、ある。過去というのは表面に浮き出る今の自分を底の方から支える地下水脈的な役割を果たしているようだ。それは、それ自体はどうやっても訂正不能で、その影響は今の自分のどこかに効いている。だから、考えるほど嫌になる。
自分は成長段階において、自分の根幹に他人を含めてこなかった。僕が他人に何かを求めるとするなら、それはただ、同じ方向を見て歩くことなのかもしれない。たぶん。

こんな夜には、リヒターの管弦楽組曲を聴きながらクエスチョン・バンクを眺めるに限る。本を読んではならぬ。
秋の過ごし方
コンビニに本をコピーしに行ったら、風が気持ちよかった。秋よのう。
満腹時の摂食行動は、行為そのものによって得られる体験が、自分の中の何かを変容させたまま、自分を都合のよい状態にロックしておく作用を持つ。秋に食欲が増進するのは、このロック機構が秋風によって惹起されるからではないか。

100も200もあるピースから一つ摘み上げて、それが周囲の四つのピースにぴったり合うなんていう確率は極めて低いだろう。でも、パズルとはそういうこと無しには完成しないものであって、確率が低いからといってエイヤと無理に押し込んでしまうと、出来上がった絵柄に致命的な欠陥が残る可能性がある。
逆に、そもそもそういう考え(欠陥、とか)は融通の効かないアフォな考えで、本来絵柄は自分で修正可能なのであるから、ピースを組んでから変更すればいいではないかとも思う。でも、きっと何かが違う。

確かに、新しいことを始めてからそれに合うように自分を変えることは、余程の無理がない限り可能ではある。けれど、抹消の行動まで一貫した理論で貫くためには、ちょっとしたことであっても根本的な部分を変える必要がある。たとえば音楽の趣向一つにしても、それを変えることで自分の精神世界は大きく変わる。

僕は多分、今の自分の根本にあるものを、憲法九条のように、理想としての位置づけにしたいのかもしれないと思う。それを変えうるのは概念的な言葉を用いた本質的な議論か、突発的で回避不能な衝動と呼べるようなものだけで、それ以外の計画的反抗によって変更を促すことは難しいのではないかと思う。変更することによって生じる事象は膨大で、考えるだけで面倒くさい。僕は、根本の概念の改定もしくは外力無しに、それ以外の末梢部分からは、積極的に自分から自分を変えようとはできないのかもしれない。

知識が頭に入っては脳のどこかに引っかかり、それ以外の大部分はさらっと流れてしまう感触の、感傷的な賞味。秋風の知覚と、ロック機構によって説明される、それをいつまでも感じていたいという情動、そして摂食行動のもたらす自己の反抗的肥大。今年の秋のテーマ設定は、果たしてこれだけでいいのか。
あー
今日はhyperに動いた、、
一日眠かった。

明後日のはずの試問がいきなり明日になった。何も勉強してないし。今からやれと、、
てか教授に部活聞かれて、卓球やってたって答えたら、卓球なんてやってるから白いんだよ!っていわれた。どんな印象だよ、、 まぁ絡みにくいのは事実だけどさ 俺そんな白くないもん!

帰ってからはひたすらメール処理。4つくらいの仕事を同時に流す。今日はmanicだったからいいけど、明日か明後日あたりdepressionになりそうで怖い。
らくだ~
さっき手術症例レポートを先生に送り、今日のモーニングカンファのpptを先生に送り、やっと一段落。
あとは木曜と金曜の試問に向けてちまちま勉強するだけだから、肩の荷が下りたかんじ。

外科のレポートって内科とは違ってなんか書きにくい。多分、オペの術式の資料がまとまってないからだと。


朋友给我发送了邮件、不亦楽乎。
疲れた。
棒になりたい。(安部公房参照)
死んでから棒になるのではなく、棒になってから死にたい。

自分が棒になったところを想像してみる。
棒の周囲には少し厚みのある筒が巻いてある。
棒は不安定そうに地面に突き刺さっていて、時折揺れる。そして周囲の筒に触れると、押し戻されるように垂直に戻る。筒も時折揺れるが、棒に触れると垂直に戻る。そんなどうでもいいイメージ。
Give me more...
もっと自浄能力が欲しい。
つい漠然と周りに求めようとしてしまう考えは、適宜駆逐していきたい。
まずは自分が中心で、周りのものは自分との関係性を保つという意味での成り立ちであり、全ての主導権は何らかの形で自分にあるという原則が、時と場合によって守られたり守られなかったりするのでは、一貫した強さは作れない。

今日は実家経由で墓参り。足利日赤が近かった。てか父の実家から歩いて数分でした。。うちの先祖のお墓からも数分。 祖母に数年ぶりに会った。85歳なのに元気そう。病院に来てる人とは違うオーラがありました。普段は詩を詠んでるらしいです。そしてこっそりお小遣いをくれた!


プロコフィエフのピアノコンチェルト2番とラヴェルのピアノコンチェルトにはまり中。
そしてバラキレフのひばりの楽譜をゲット。メトネルの次はこれかプロコフィエフの悪魔的暗示のどっちかに決定。

整形レポートやばす。
整形1w終了
オペ室寒すぎ、、
一日居たら風邪ひくよー。
整形は、空間認知能力が良くないと厳しそう。ちゃんとやるならアトラスが必要なことはわかるのだけど、来週の水曜に試問だし、多分自分は専攻しないし、ということを考えると文字中心の付け焼き刃の勉強になって、それはやっぱりだるいから、整形だるい。
先生の雰囲気と教育的なところはすごーくいい感触なのだけど、それだけに。

んー、考える暇がなくて前に進まされている感じ。
だらーっと本よみたいよぅ、、
fate of 0.5sec
ニュースより
他人を魅力的に感じたり、仲良くなる可能性があると判断するにはわずか0.5秒しかかからないという新たな研究結果が発表された。

たしかに初見はそんなものかも、、、

今日はやたら忙しかったー
調べたり読んだりするのはそんなに嫌いじゃないけど、真っ当な資料が見つからないのは嫌、、むしろまとまったものを見つけるのが快感なのかも。見つかった後は若干放置気味のことも汗。 明日も多分忙しい予定

…週末がちょっと楽しみw

KAPPA講習会は挿管イントラとPEAデモに。がんばるぞ~



*******
WindowsのHDDとOS初期化ですが、ドライバCDを紛失したためサポートにメールしていたのですが、この度無事インストール完了し、使えるように♪ ドライバってすごい役割果たしてたんですね。ドライバが無いと、USB認識しないわ、画面粗いわでまるでSafe Modeのようでした。
整形
整形開始。初日午前からいきなりオペ見学
ドリルとかノミとかペンチみたいなやつとか、とりあえず音が日曜大工でした。赤外線レシーバをマーカーとして骨盤に立てて、CT画像と同期させて人工股関節の角度を特定。そういう工学系の発想は惹かれる。あと人工ダイヤモンドを初めて見た。白かった。
試問がそこそこ厳しいと噂なので流石に勉強しなくてはと思うのだが、読みたい本が、、、

今日もなぜか眠れないし >_<;;
Yundi-Li
今日はKAPPAの外傷部内講習会ですた。
みんなで身体使って学ぶのは楽しいです。
KAPPAは周りの人がよく勉強してて、参加するたびにモチベが上がる。
自分も人に教えるのうまくなりたい。

久々にCD購入。
Yundi-Liと小沢征爾のプロコのピアコン2~!!!
両者とも単独だと、おそらくそこまでひきつけられるわけではなさそうだけど、組み合わせは悪くない。初回盤特典でYundi-Liのポスターがついてきたので、コルクボードに貼ってみた。でかい。Yundi-Liは今回はじめて聴いてるのだが、プロコにはちょっと歯切れが悪いのでは、と思った。彼からユージン・イストミンらしさを抜くと、ちょうどプロコって印象。今度はソロで聴いてみたいですね。
この曲はリヒテル×アーノンクールあたりで聴いてみたい、やっぱプロコにリヒテルは外せない。。
リセット
今はメインをMacBook使ってるのだけど、
表示の大きさの問題とか互換性の問題とかで、WordやExel使うのは明らかにWindowsの方がいいので、書類関係はWin機を使うことに決めました。
でもWin機は遅かったりすぐ加熱してファンがうるさいのがいやなので、外付けHDDに適当にバックアップして、初めてHDD再フォーマットからOS再インストールやってます。
2年数ヶ月前に買ったばかりの状態にもどってしまうんだなーと思うと、ちょっと切ない。
外見は変わってないのに、中身は今までの蓄積がゼロになっているのでしょう。

PCと人間を比較するのもばからしいですが、人間はすごいとおもいます。人間が何十年もリセットしなくてすむのは、ひとえに学習やら可塑性やら忘却の賜物なのでしょう。
ひっきー
今日は8時過ぎから4時くらいまでずっとメディアにひっきー
疲れたので帰ったら寝てしまった 今晩どうしよ。明日は試問。結局今週は病棟に一度も行かなかったな。明日ははんこをもらいに行こう。肩から首にかけて重い。
abe首相が入院、、ごついSPがどこぞの病棟にいたとかいないとか。。

Schizoの雑誌を読んでると、明らかに分子生物とか生理学の勢いが強い。NMDA-Rがドパミンとセロトニンの上位にあるとか、DセリンがNMDAのcostimulatorとからしい。NMDAねぇ。。。
薬を使うと症状が改善し、正常に近くなるという気味の悪さ。きっと心脳問題が回帰する瞬間を見ているのだなぁ。正常に戻った患者さんは、異常だったときより幸福なのだろうか。なぜ皆、自分たちが正しくて、患者は正しくないと思うのか。本人だけじゃなくて周囲が困るのを助けるのも医者の労働の一つだが、患者が正しくて、周りが実はおかいのでは、という疑問を少しは持つべきではないか。妄想性障害では本当にそういう例があるそうだけど。正常とされている周りを少しずつ変えることで、所謂周囲の正常者と異常者が共存する社会を作る方向性は、模索されないのか。
…それは効率わるいのか。

まぁでも、もし効率が悪いというだけの理由で薬を与えられて、ほらあんたおかしかったでしょ、と言われる人が人口の1%いて、そのおかしかった理由が脳の構造と、その構造に基づく発達障害およびneurotranmitterの異常として書き立てられ、膨大な研究資金と勢力がつぎこまれているのは、なんだか悲しいことのようにも思えるのです。
今までのこと
僕には、周りの人にあるような感受性の一部が無いような気がします。昔はあった気がしますが、今は、まるで二度と開かない蓋をされたようです。勿論、昔もっていたものなので、想像はできます。でも残念というべきなのか、実感はありません。
僕は、過去も未来も見ようとしなくなってしまいました。今の自分の感覚と呼べるようなものだけが信じられる全てのもので、それ以外のものはどんなものでも結局は信じられないものだ、という固い信念のようなものが出来ていました。この感覚が確実になったのは、おそらく今年の頭くらいだったように思います。そうしていくのが、自分にとって一番精神的に負担が少ない生き方なのだ、と、悩み抜いた結果、そういう一つの結論を出してしまったようなのです。僕を中心にして言うなれば、僕はそのように教えられたのです。第三者的に言えば、社会との関係性の中で、僕はそういう道を選んでしまった。
その昔自分の多くを形成していた上昇志向、自分の人生への期待、そして他人への期待が当たり前のようにきれいさっぱりなくなりました。その代わりに、それらへの不安も同じようになくなりました。ただ、今自分は流れている。見えるのは今自分が向いているベクトルの指す、暗黒の中に空く一点のピンホールのみで、将来予測の頼りとなるのは、そのベクトルの向きだけ。

そのせいか、悩み事の種類も変わりました。多分以前に比べて安定もしました。例えば、それまで何かにつけては気になっていた、彼女がいないなどということは、それまでが馬鹿みたいに気にならなくなりました。今の自分を、それまで期待していた方法とは違う方法だけれども、自分で積極的に認められるようになりました。
が、その一方で何かを失った気もします。何を失ったかは、そのときにならないとはっきりはわからないでしょう。今の自分に言えることは、それを取り戻すには、現在に凝集された自分を何者かに向かって投げ出すしか方法がない、ということでしょう。その紐無しバンジージャンプの勇気が自分にあるかどうかは、そのときにならないとわかりません。一生投げ出せないかもしれません。

人はいつでもどんな風にも変わり得るし、今の自分以外は絶対に不確実。ただ、今の自分だけは見ていなければならない。他から目を逸らした分だけ、今の自分を見てしまう。今はそれが新しくて、極端に言えば、それに懸けて生きていくつもりだけれど、またいつ全体の構造が変わってしまう転機がくるかは、今の自分にもわからないのです。
不安と判断
自分は多分、何かに焦っている。胸に手を当てて考えてみると、何かが不安なのだと思う。不安だから、それを払拭しようと焦る。ただ、その対象が何なのかは明確ではない。自分は現状を都合良く呑み込んだつもりでいるし、少なくとも他人と自分に対して、そういう立場に居るようなことを言うことも出来る。けれどおそらく、現実には、現状を確実に説明するには何かが足りていない。なぜなら、現に自分は、不安なのである。そしてその不安は、自分が今説明できるものごとの範囲外の領域から創発している。
ちなみに切っ掛けなしにおこる漠然とした不安は不安障害の一症状だが、僕はそれを器質的要因に還元できるとは絶対に思わない。器質的要因への分類は、イデオロギー的"正常者"側から見た"治療"における功利的利用だけで充分である。本質的には、言葉で説明し得る理由が、まだ本人の言語で開かれていない領域に必ずあると、僕は思う。(尤もこの時点で「理由」を問う推論の形式と性質についての疑問が立ち現れるのだが、詳細はunder question.)

説明云々が足りていないのではなく、元来生きるというのがそういう性質のものなのかもしれない。そう考えると、不安という人生はある意味残酷である、ということも可能である。後で出てくる安部公房は執筆中に「現在と未来の断絶の残酷さに苦しめられ続けた」と書いている。がしかし、「残酷である」と言った時点で、そこで不安に生きることの議論が止まる。「不安に生きることは残酷だ」という総合的な結論。それをひたすらつぶやきながら、生きていくことになる。それはそれで、確かに了解可能な在り方である。(ちなみに、道端に咲く花を見て「わーきれい!」という感想で終了するというのは、この状態にある)

同様に、不安である、と言った時点で、不安に生きることに関する議論は止まる。不安は不安であり、不安以外のものではありえない。それ以外の説明は原理的に、不安以外のもの。「私は不安だ」という総合的な結論であり、議論の終末像として不安という気分があり、その「不安」と何のわだかまりもなく共存していく。謂わば、不安の湯に毎晩浸かっているようなものである。
僕は、自分がそこで止まってしまうのに耐えられないのだと思う。不安の湯に浸かっているのならば、例えば湯の成分を調べたい。湯が自分に及ぼす影響について調べたい。それが適わぬのなら、浴槽の形だけでも知りたい。動機はともあれ、この行為こそが哲学の営みであり、医学で言うなれば精神病理学なのだと、僕は思う。

ちなみにここまで書いて思うのだが、「"この気持ち"を"不安"以外の何と呼んだらいいのだ」と言われれば、それ迄である。たしかに、道端に咲く花はきれいなのであり、私は不安なのである。僕はただその与えられた表現に納得がいかず、自分なりの表現を探したいという強迫的な観念をもっているだけで、おそらくその力動が力尽きる迄、問い続けてしまうのだと思う。それでも、精神医学に於いてはそれが精神病理学という形で病態の記述に役立ってくれるのは、少なからず幸運なことだと思う。




安部公房の第四間氷期を読み終わった。今まで読んだ彼の作品の中では一番感動した。生命倫理感への意識的な冒涜と、それが判断の主体が本質的に存在しないという決定的な理由によって、現実的な時間の流れの中に許されてしまう描写が秀逸。
筆者の、現在の自分の判断能力を超えたものが存在し、その存在はそれ自体が残酷である、という世界観は非常に共感できる。自分が生まれる25年も前に既にこういう考え方があって、それが小説になっているという事実に、生まれて22年と数ヶ月、そして同様の思想を持ったのが数ヶ月前の自分は、なんとも感傷的な気分になる。

判断というのはあくまで一定の立場からの判断であって、価値判断は本当に保留するしかないのだ、というのは大体一年前に自分が至った結論だけれど、それは現在の自分によって正当に評価されている。これで、この考えが自分という時間的に連続な主体にとっての推論的真実であるという可能性が、一年分だけ確実になった。
言葉
異性について罵る時、顔を否定するのと人格を否定するのと、どちらが酷いか。
お互いの顔は相互作用しないから、それを否定するのは一方的で弁解の余地を与えないが、人格は相互作用し得るし、相互作用して初めて発現するものであるから、それを否定するのは両者のずれという解釈が可能になって、顔の否定よりはまだましなのではないか。


言葉を知らないと、状況に飲み込まれてしまう気がする。
安部公房の第四間氷期を読んでます。
形式で言えば妄想着想や妄想知覚、内容で言えば被害妄想に近い表現がたくさん出てくる。。
こうやって、状況に自分を同期させなくてもそれが理解納得可能になるような、分析をするためのツールとしての言葉を知らないと、いつの間にか自分もそちら側に引きずり込まれてしまいそうな気がする。感受性を強く持つことは時には必要だが、敢えて遮断することもまた必要であり、遮断する時には概念的な言葉が有用である。
例えば、「テレビが自分の悪口を言っているように思う」
というのを、頭を抱えて、一体それがどういうことか考えるよりは、
それを被害妄想、と一口に言い切ってしまえば、自分にかかる負担は少ない上に、clear cutに理解納得が可能な気がする、というのは善し悪しなのでしょうけれど。

微妙に鬱。眠くてなんだか動きたくない、、
実感
外病院実習終了ー
朝は多摩川が濁流でした。赤い救助ヘリが飛んでました。
雨風おして行ったのに、午前中は手の空いてる先生が誰もいなくて、、相方と二人で教科書読んでいたという。。祈祷妄想の話で盛り上がった。患者と話す時とそれ以外の人と話す時の切り替えがまだ慣れない。自分に負担をかけずに患者の話を聞くのはまだ無理。
昼ご飯は副院長が食券くれた! 食堂のご飯は某病院の某緑カフェよりずっとおいしかった。安いし。

もしこの科に進むなら、目標は
病理≧薬理=生物学的
という位置づけに。
多分臨床家および趣味としては病理が第一で、研究として残り二つを、というイメージ。もちろん薬理は臨床にも欠かせないですが、それは他の科でも同じ位置づけということで略。結局記述的にまとめてしまえば、薬理で用いる疾患概念も広義の病理には含まれるし。まぁ概念や原理なんてなくても治療はそこそこできてしまうし、それが殆どの精神医療を支えているという現実からすると、病理は全体を俯瞰して、必要に応じて詳細を議論できるという意味でおいしい&根本的な位置にあるとは思うのですが。

聞く人がきいたらあたりまえのことですが、医者というのは臨床をやる職業で、何を差し置いてもとりあえず患者を治療することに第一の目標があるということに気付いた。それがおそらく、哲学思想と精神病理の違いなのかと。

ふーん

改めて、所謂医者にとって、研究は臨床をそれなりにやってからやるものなんですね
やっと実感してきた。。
感動した!
今日はECT見た後に外来で予診とって、その後残って外来見学。
面接診断が神でした。自分は、ptの話を聞いてて適応障害か対人関係のうまくいかないパーソナリティくらいに考えてたのが、先生の診断はパラフレニーという。。そして物事の先の先を読む話の持って行き方と治療の方針。その先生自体がSchizoという噂も耳にしましたが、、でも診察後に聞かせてくれた解説を聞いて、鳥肌たちました。

リエゾンカンファは雰囲気つかめたのはよかったけど、暗かったので眠かった。。。

明日は外病院ーー
面接
今日は午前中に患者との面接、午後は病棟カンファと家族との面接を見学。
家族との面接は1時間強でした。カタコッタ

精神疾患は身体疾患のように明確な数値とか指標はほとんどなくて、かといって疾患を定義する言葉の使い方もそこまで厳密に扱っているようではない。ということは、結構いい加減にやっても、ある程度人間関係のポテンシャルがあればそれなりに出来てしまうし、一方でそれなりの主義を貫いてやることもできるし、その辺は先生によって様々だし、結局のところレールというか、大元は自分の知識と言語感覚以外にないんだなーという感じでした。
にしても、今日聴いていた面接はすごかったっす。才能だわー、、

二週間で勉強できることはほんと限られているので、とりあえずできるかぎり仕事を見学する方向でいこうかと思いました。

ひっそりとうつ。
せろねがてぃぶな日
ポリクリ再開。
集団というか、久々に現場で学ぶ学生としての立場に放り込まれて、どう振る舞ったら良いのか適応しきれない一日でした。やけに疲れたー。肩凝る。
ラウンジで戯れてたみんなは元気そうでしたね。同級生と会うのはいいものです。

科は願ってもない精神科なのですが。まだ先生としか会ってません。
環境に適応できていないからなのか、自分に対するpositiveさがseronegative。
自分が興味があるのは依然として科学哲学と言語だし、精神科ですら、サイエンスにエビデンスをもたなきゃ意味がないとか、脳がわかれば精神はわかるって言ってるし、たしかに疾患の治療だけが目的ならそれでいいのだけど、、自分が本気で医者をやっていけるのか心配になってきた。。
夏のメモ
原理の追求は必ずしも利便性の追求と同時に行われるものではない。原理を利便性に還元しないという立場も、原理を追求する立場からは必要である。
疑われることのない因果律、前提の擁立、系内での普遍性という観点からすると利便性の追求は科学的に行うのが安全かつ安楽だが、原理の追求は方法論的にこれらとは別問題である。少なくとも前提を擁立した時点で、それ以前の因果律は封印され、封印された因果律と前提は一つの解けない塊となって、その性質はよく明らかにされない。原理は、その塊[エンドポイント]をきついボトルネックとして、原理的に追求されなくなる。(その解けない塊を含んだ世界をうまく説明できる方法が見つかればそれはそれで問題ないのだが、それはおそらく、その塊を教義とした広義の宗教と呼ばれるものなのかもしれない。)
これを科学に関していうと、科学は少なくとも外部観測による方法をとっているため、主観および主観と客観の関係性が一つの大きな塊となっている。だから例えば、自分とは何かとか、少なくとも自己の原理に触れるような問いに固執する人にとって極めて無力なのが現代の科学であると思う。

同様にして、議論のどこかに含まれているであろう「塊」について注目すると、まずは考えている[考える]こと自体について考えている[考える]ことの限界性を感じる。思考はおそらく言語に基づいて行われている(少なくとも正常な思考方法は正常な言語の使用の十分条件である)から、つまりは、言語の様式自体に限界性を感じる。卑近な例から行くと、そもそも言語を扱うにあたって最善の方法である因果とは何か。我々が論理的に物事を考える時、真理を保存するとされるのは妥当な演繹であるが、modus tollens/ponensに代表されるその因果関係とは何か。「とは何か」というのは乱暴な問いの立て方ーーなので難しいが、(思考停止)

少なくとも言語の様式、思考の形式について、我々があたりまえとして嵌っている殻を破るには、Schizoの人から話を聞けば、病理学的に道が開けるのではないかと期待しているのだが、如何。
夏の終わり~~
ほんと涼しいですね。もう秋なんでしょうか。秋雨前線がきているそうです。
今日は秋にありがちなテンションでした。深く眠れないのになぜか早く起きてしまい、結果眠いけど眠れない。そして精神面で、一度振れ始めた方向に抑制がきかなくなる感触。いつもの秋。

Felicaの使い道と使い方をマスターした。SUICAは使わず、Edyだけクレジットカード払いで落とすことにした。

明日は休みの最後。
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