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熱い!
昨日は新聞部の部会の後、卓球部に出てきました。5ヶ月ぶりにしては悪くない感じでした。でももう東医体まで練習できないので、もうちょっと調整したかったな、、、
その後研究室に行こうとしたら、ラウンジに先輩がいて、ひたすら話し込むことに。場所を研究室に移して8時間くらい喋ってました。
そこでわかったことは、一口に言うと、非常に重要なのは、論理性を保った議論の中に非論理を認めることであり、論理ー非論理の分類であり、自分が勉強すべきなのは今のところ言語哲学であるということでした。そしてこれらのことがわかった前も後も、非論理性故に自分がやることは変わる必然性がないということ。
まじ熱かった!! 
あと精神病患者は新たな理性・論理・言語体系を獲得した、自己創出的な論理構造を有する可能性のある存在なのではないか、ということ。


そして、一週間経ってもお腹の調子は戻りませぬ。。
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選挙雑感
民主党圧勝らしいですね。
まぁでも埼玉では慶医OBの古川俊治氏当選してよかったです。医療制度改革にはがんばってほしいとおもうもの。

<選挙に行かない理由のようなもの>
ちなみに自分は選挙行きませんでした。住民票埼玉だし、なんといっても関心がない。歴史上民主化を推し進めてきた人々にしてみれば馬鹿にしか見えないのだろうけれど、だって事実なのだから仕方がない。社会的には所謂"お恥ずかしいこと"ではあろうけれども、個人的には真である。自分は日本社会をどうしたいとかいう考えが殆どない。今のままでいいっす、というのが感想。消費税(間接税)が上がるのは多分今まで積み上げられてきた制度を鑑みれば仕方のないことだし、必要ないのにそんなことを言う政治家はおそらくいないでしょう。いたとしても抹殺されるでしょう。そしてそれを信用できないなら、自分が政治家になるしかないでしょう。汚職はどの党がやってもどこかで出てくるものだろうし、まぁ資本主義か共産主義かくらいの違いはあるにしても、今、そして将来的に自分がこの社会で生きていくのに直接的に必要なのはおそらく医療制度改革くらいのもの(そういう意味では古川氏の当選は少し喜ぶべきことだったのです)。それ以外の社会制度は、将来的に自分にとってfatalになるかもしれないけれど、それは今の自分が知ることのできない類いのものであるし、予測は現実的に不可能。まぁいざとなれば日本脱出すればいいし。そして、ある公約の一項目に期待して投票したとしても、党議拘束とかで、自分が注目した公約以外のことに(も)着手する政治家がほとんどで、それによって、投票において期待した社会制度への予測的効能の80%は、自分が注目した公約以外の部分に使われるというイメージ。そしてそれはどの官僚にやってもらっても、世の中で必要なことというのはそこそこ限られているのだから、大してかわらないでしょ、という考えなのだが。

<一票の重み雑感>
後はやっぱ一票の重さが感じられないのが問題ですよね。開票結果を見ていると、結果的に自分は投票しなくてもよかった、と思えてしまう。それは違うのだ、といくら言われても、二位の候補の票数に1を足して一位から1を引いても順位は入れ替わらないのだから、なかなかその概念を覆すのは難しい。「1票×みんな=いっぱい」だよ、っていわれても、果たして「みんな」が投票するのかは自分にはわからないし、それは権利である以上自由ということになっている。だから、自分の票はあくまで1票であり、それ以上に効力の想像は膨らまない。
もしも自分の票を1票以上にしたかったら、どの「高名」な党とは言わないが、知人に電話攻勢するとか、それに「そうかソウカ、ガッカリィ」と言うとか言わないとか、選挙活動をすることになるのでしょう。そうでもしない限り、数万票の中の1票の虚しさというのは拭えるものではない。話が逸れている。

関係ない話だが、投票率が問題となっているらしい現在、一度投票率0パーセントの投票をシミュレートしてみたら面白いのではないかと思う。民権運動的にはありえない社会だろうけれど、考えることはできるでしょう。はたして。

<結論>
もっとも、、
科学は外部観測というある意味偏った視点に立ったものであり、それは主客問題において決定的なエラーを引き起こしており、従ってこれからの日本社会は内部観測にも目を向けるべきである と主張する政治家がいたら、自分は絶対投票しにいく。


ということは、やっぱり自分は社会制度に興味が無いということなのでしょう。日本社会が駄目になったらどっか他の国に行けばいいんじゃね、くらいに思っているドンマイですから~~
私。
こないだ夜の職談で、先輩がマッチングの準備をしてました。事前小論文で、「私」について述べよ とあった。ここで「私とは過去と未来をつなぐ主体である」とか書いたら、もし真っ当なことを書いていても、プシコとして落とされるのだろうねーという話。空気を読んでないってことになるのだろうけれど、そうだとすると余計に、個性の認められない世の中だなぁと思う。書いてみて落ちたわけではないからなんともだけれど、書く勇気がないのは確かな事実w まぁどうでもいいですね。。
病院見学は秋からでいいやーという結論でした。秋になったら、冬からで…とか言ってそうで怖いですが。
なんだか
昼に起きて、午後は研究室。
夕方はピアノのミーティング。3人しかいなかった!
夜は新宿御苑の野菜のお店でカレーを。カレーと言いつつ野菜でした。
Body ShopとHOKUO20%offで買い物して再び研究室へ。
カレー食べてたくらいから鼻水がとまらなくなる。
うーん、夏風邪?てか体調悪いし。 まだお腹も治っていないというのになぁ。。
月曜は5ヶ月ぶりくらいに部活に出ようと思うので(実はこれが東医体前最後の練習だったりする)、それまでにはなんとかしたいところですが、、。
早く寝よ。。


あ、あと隅田川花火見ましたよ。ついさっき。YouTubeでね。。はは~
上海の感想など
昨日帰ってきました。
最終日に食あたりしたのが唯一の誤算でしたが、上海では現地人も食あたり多いらしいので、文化の一環として。楽しかったし、いろいろ考えることのある旅行でした。それは後々、自分の一部として書いていこうかと思います。

とりあえず印象に残った点を。今回は一日はツアーだったし、二日目は市街地を徒歩+地下鉄+タクシーだったので、偏った感想かもしれませんが。
上海にいる現地人たちは、基本自己中心的という印象です。規則は二の次で、皆が自分の存在を主張して生きている。車が対向車線を走ることは当然だし、赤信号を進むのも当然。信号のない道路ではバイクは警笛を鳴らし続けるし、自転車に乗っている人はその代わりに怒鳴り散らす。買い物では客の顔色はほとんど見ないし、売りつけたければ永遠に食い下がる。中国語の通じない相手でも気にせず喋り通す。空気を読むとかいう概念はおそらくないのではないかなぁ。人と人との距離はやたら狭くて、並んでいても常に背中に誰かが触れていて、ちょっと隙間があればそこから割り込む。子供たちを見ていても、自意識という概念が育ちにくい環境なのか。都市部は発展的で、用途の想像がつき難いくらい高いビルが乱立して、その直下には(googlemapでもわかる)赤い屋根のおそらく中層階級の人が住む家があって、ちょっと郊外に行くと、建てている途中なのか壊しているのかわからないような廃墟に人が住んでいる。
それでも、努力さえすればどんな風にでも発展・成功できる勢いのようなものを感じました。ただやはり格差というのは歴然としていて、それは生まれ持った環境によるのだろうという推測からすると、その点理不尽さというのも多く存在しているのでしょう。
ちなみに英語で意思疎通のできる人は日本語を片言で喋れる人より少ない。空気は汚くて、スモッグで空は白っぽいし、太陽はあまりまぶしくない。帰ってきて吸った新宿の空気がおいしく感じられました。空は青いし。
そんなところでしょうか。現地人とは、英語の喋れる店員とちょっと絡んだくらいで、殆ど接触していないのでなんともですが、来年の夏あたりに日韓交流会で中国の学生がやってくるのであれば、いろいろ話を聞きたいと思いました。
あとChinese-popのCDを二枚ほどジャケ買いしました。一番高いやつでも、一枚35元。600円弱だから、相当安い。


今回の旅行で確認できたことの一つは、自分は他人とか社会に”一義的な”興味がないということです。自分がいかにこの瞬間を享受できるかを中心として、その周辺事項としての他人とか社会と相互作用していきたい、というところでしょうか。そういう自分さえ見失わずにいれば、さしあたり何処に行ってもやりたいことはできるし、むしろ「精神科医になりたい」と言った瞬間ドン引きする人が溢れるような、そしてたくさんの空気を読んで、自分を殺して集団を尊重しているように、あくまで”見せかけねば”ならない日本よりも、より自分にあった環境を探しにいくのも可能性としてあるのかもしれないと思いました。
上海と日本を比べると、多分日本の方が好きだけれど、日本以外の社会という選択肢も考えうるというのは、自分の中で新しい発見でした。

あー、お腹痛す、、、orz
明日から
上海いってきます
段ボール食べないように気をつけます。。

完全プライベートで海外に行くのは三年ぶりくらいなので、楽しんで来れればと。
そいでは。今から準備しまつ )/~~
問題なこと
さて、とりあえずPCR待ち。周りに人がいないといろんなことに集中できると実感。かといって一日中誰ともしゃべらないのも寂しいもの。。
てか周りに人がいても自分のペースを保てるようになるのが先決なのかしら、と。いまさら。。

身を以って哲学しよう、系の本は逆にややこしいことなくて、そんなことはないのだが、中途半端な哲学入門書だったりすると、あまり砕いて解説されない用語が出てきた瞬間疑問が残ったまま進まなければいけないのが嫌。
論理実証主義の話で、理論文を観察語で書き換えるのに対応規則というのを使って(それによって仮説を予言に演繹して)、観察によって理論語で構成される仮説を検証できる。という部分なのだが、
その対応規則って、理論語をまったく違う概念である観察語に再定義する規則なんだよね?なんか絶対もっと重要な意味がある気がするのだけれど。。まぁいいや、、、、、


それはまぁどうにでもなるからいいとして、

やっぱり問題なのは、こんなことをしてる自分について。
今自分はそれなりにやりたいことをやっているようだけれど、それはもうちょっと計画性を持たせたほうがいいのではないか等と思う。特に医学とかUSMLEとかは資格とか期限とかキャリアというものがおそらく目に見えてついてくるから後からの意味づけも楽なのだろうけれど、自分が今欲しているが故に手をつけている、哲学とか音楽の諸々のことというのは、おそらく自分の中で評価するしか方法がなくて、それはすごく大変な作業であるということ。だから、レールに乗ってそれなりに努力して、はい結果出ました!っていうようなこととはちょっと意識を変えて、工夫を持たせた計画と評価の方法を考えないと、ただ気の向くままにやっているだけではどこかで後悔するのではないかという強迫観念が頭をもたげてきたわけです。

うだー。
ん。
完全昼夜逆転成立。
鬱にならないように夕方から研究室に行くと決めると、こういう生活になります。

今更ながら、新見嘉兵衛の神経解剖学ってすごいですね。やっと少し価値がわかった気がする。研究室の微妙な空き時間は今まで放置してた科学哲学の本を読むことにした。反体制主義ではないですよw

明日(もう今日)は昼前に駒東会の記事書いて、日韓の仕事して、きんとれして、新聞の取材先に電話して、それから神経、GelExtraction、神経、PCRまでやりたい、、、
あ。
ポリクリその他で放置してあった微妙な結果の研究について、入念な準備のもと、腹をくくって教授に話しにいきました。
夏休み中にまた実験の続きをすることに。
あ…れぇ  ??
なにかがおかしい、、、
夢とは何か、
今、ふとよくみる夢についてを思い出した。何の前触れもなく。
今のところ社会的に暇なので、どうでもいいことばかり書いてしまいますね。。

夢の内容は大したことない。自分は中高のとき鉄緑会という塾に通っていました。典型的な詰め込み型の塾で、休むのは、余程のことがない限りありえないかんじでした。一度休むとついていくのが比較的きつい。それなのに、夢の中では週二回の英数を二ヶ月くらい休んでて、欠席者教材(一度の講義で配られる資料は結構多かったような、)が山のように手元に届く。宿題(これも当時は膨大に感じた、)も全然やってなくて、もはやこのクラスに復帰してやっていくのは無理だ、という果てしない絶望感と先行きの暗さ、そしてやるべきところに手を付けていないことが明白な、表紙が黄色・ピンク色の英語教材と、あの無機質なビルの受付で、カウンター越しに、テンプレートに先生が手書きで書き込んだノルマリスト(休んだ人はコレコレシカジカをやっておけ、という指示)が想起されるとともに夢は終わる。

内容自体は何の示唆も与えない夢ではあるが、たしか繰り返しみたような夢だったように思う。ところで、「夢だったように思う」と書くとき、言いようもない違和感が走る。
意識が清明なときに思い出す夢というのは特別なもので、自分は本当にその夢を見たのか、という気分になる。夢を見たと想起する事象自体が「夢」なのではないかと錯覚するような感覚に襲われるのである。でも、僕は今夢を見ているわけではない。おそらく、ここの言葉の使い分けが自分的に味噌なのだと思う。

夢の中で夢をみているということもある。大抵内容はよく覚えておらず、とりあえず生理的におぞましい雰囲気の中にいる感じなのだが、その夢からがんばって抜け出して、さぁ楽になれる、と思ったら、実は体が動かなくて、まだ夢の中でしたーみたいな。自分はまだ夢の中にいて、覚醒しているときの「あの」状態ではないことがわかる。そしてその後は必ず金縛りがきて、危機的な寒気に促されるように、覚醒しようとがんばる。

夢とは何か、という問いに対する答えを、記述するのは難しい。それはおそらく僕が夢について書き始めて間もないからであり、これからいつもより注意して夢を見て、そして書いていくことによって、僕なりの夢の定義ができてくるのに期待したい。語学と同じで、自分が書いた、夢として表現されたものをたくさん読んでいくことで、僕が何を持ってして夢と言っているのかが徐々に明確になっていくのか。
どうでもいいこと
ほんとどうでもいいこと。

結局徹夜… 意味のない徹夜は悪くない。
この時間帯、空が白んでくるあたりの空気の匂いが好き。
休日の早朝だと新宿通りの交通量も少なくて静かだし。

もう少し進めたら外苑走ってこよう。。

科学哲学とかオートポイエーシスとか考えるべきことが周りに明らかにあるのに、なんだかその気にならなくて放置してあって、別の本を気合い入れて読んでいるのだけれど、なんだかなぁ。。というかんじ。

医学の基本的なところの勉強というのは比較的退屈な上に自分が生きていくのに必要な思考力と考えるための時間を奪う。早く終わらせたいが、先は非常に長い。。
選択
雨雨ーー
明日は東京ビッグサイトにてエセ就活。台風直撃なりー
スーツなんで土砂降りとか強風はやめて~~

自分がどうなりたいか漠然としかイメージできないので、研修病院もどういう基準で選べばいいかわかるはずもないのだけれど、とりあえず資料だけもらいにいこうかと。でも一年後には自分の中でだいたいの結論をだしてなきゃいけないんですよね。まぁたぶん無理でしょう。大学受験のときは明確な根拠があったと思うのだけれど、「人を助ける」とかそんなかんじの(今考えると)ありえない動機だったし。そもそも次の瞬間のベクトルを今現在のベクトルで決めること自体に多少の飛躍がある。かといってすべては結果論といってしまうと、次の決定を自分の意思では遂行し得なくなってしまい、おそらく現実的ではない(現実的とは何かについては不明)。だからこれに折り合いをつけるためには、今決めるべき次のベクトルを、自分が描くであろう一連の曲線の中のあくまで動的なものとして、その一部であるという認識でいないとうまくいかない。これはたしか木村敏がノエシス的と呼んだ概念に近い。その一方、今まさに次を決定している自分の行為はノエマ的である。
まとめると、僕はノエシス的思考により現実と理想の折り合いを付けながら、ノエマ的に決定するしかない。

うーん、語彙が貧弱、、、

そんなわけで、夏は本も読もう。特に木村敏は難解なので夏休みくらいしか読めなそうだし…
麻酔そろそろ終了
今日はPCA回診&ペインクリニック。
星状神経節ブロックとかやってました。Horner兆候はじめてみますた。
そして4時半からなぜか新聞の仕事で、5時からの試問で麻酔科終了、その後班飲み予定。
あと今日はじめて「おまえ麻酔科入れ!」といわれましたw
たしかに面白い科ではありますね。とくに先生たちのキャラがww 労働環境○

さてちょっと勉強しますか、、、

それで、試問終わったら夏休みです。幼稚園から数えて20回目の夏休み。そして残り2回ですね。
crash sign
午前中の外来は、一人しか患者さん来ませんでした。
拘束時間1.5時間

午後のオペ室は、とっとと帰れという雰囲気ばりばりだったので、導入だけ見て帰らされました。レポも途中までしか書いてないのに、crash induction(迅速導入)ならぬcrash signをもらいましたw full stomachでもなかったのに。。
拘束時間1時間

というわけでこの時間にfreeです。
とはいえ仕事で四時過ぎまでは学校ですが。


あと一人で考え込まないで、少し人と話すことも大切だなーと思いました。とくにpracticalな問題に関しては。最近いろんな人に助けられてます。。
ないない
はい、ないない、ないよぉー ってかんじ。
次から次へとおかしなことばかりおきます。
別にSchizophreniaの自己関連づけとかではないです、たぶんw
うまくいってたはずだろーってものが、なんだかおかしなことになってたり。それは自分が以前より細かいところに注意しなくなったためと思われますが。でもとりあえずこの状態でしばらく過ごしてみようと思ったり。回りに合わせて自分を変えないことも大切ですから。非難囂々だったら、それを頭から被って引き摺って生きていけばよかろう。自分を変える必然性はない。そういうのも、生き方の一つでしょう。

夏休みにやりたいことばかりがこの時期にちらつくのは、その立てた計画を満足に遂行できない兆候。今の一日も、夏休みの一日も、同じ一日。
あー
うーん、雨降ってますねー。晴れないかなー。
あと電気をつけたまま寝るのはなんとかしたい。。

昨日は勉強会の司会を。盛り上げるのは最も不得手とするところなので、無理っす!発言しやすい雰囲気とか無理っす!先輩が過半数だし無理っす! 無理言っててもしかたないので数こなすことでなんとかしたいものではありますが。
ちなみに麻酔の勉強は全く進みませんでした。

昼生協にマーカーを買いにいったら、本も買ってしまった。檸檬など3冊ほど。
今日からは若干hyperな日々になりそう。楽しいと噂の麻酔シミュレーション。
とりあえず携帯を破壊する夢をみた。
携帯は首のところが真っ二つに折れて、黄色い太いコードがむき出しに。
昨晩は帰ってから一時間半仕事関係のメール打ち放しでいらいらしてたから、夢でうまく調節したのかもしれない。

昨日今日とやけに夢をみるのだけれど、内容はほとんど思い出せない。

さっきまでのはたしか鉄棒と温泉がテーマで、学校関係の知人一人と小学校のときの担任とクラスメート一人が出ていた。残りの登場人物は、大学関係と小学校関係が半分ずつ。
もうあんま喋りたくない奴と夢の中でまで話すというのは、一体どうなっているのか。小学校のクラスメートは、言われればそんなやついたなーくらいの奴で、今回の夢で鮮明に思い出した。微生物とか薬の名前とか腎臓とか、覚えにくい医学知識も適宜夢に出てきて、記憶の増強になってくれればいいのだが。
あー
今日は一日メディアにいました。

くまのプーさんはADHDと強迫性障害で、
ルーク・スカイウォーカーは境界性パーソナリティー障害なんだと
そして彼の持つライトセーバーは男根の象徴だと

それはともかく、臨床心理士と精神科医の違いについて
よくわかりません。投薬以外に何が違うのか。
同じようなら、なおさら医学以外のこともやらなきゃ。
でもその前に医学やらなきゃ? あー
とりあえず麻酔がんばってみてますが。。

dryをやってる後輩と飯を食いました。
dryもwetも結局ミクロにならざるをえないという結論。
科学でものを理解するのは大変ですな、、
しかも科学的にOKでも、そこから自分的にOKになるまでにはさらなる茨の道が待ち受けているわけで、、。 あー
小旅行
今日は6時半に家を出て、旭中央病院に行ってきました。
俗にいう病院見学ではなく、研修中の先輩に日韓の寄付をいただきに。。車で2時間半でした。帰りは九十九里によった上に渋滞だったので4時間くらいかかりました。
生牡蠣を生まれて初めて食べました。
病院見学はしにいかなきゃだけど、やっぱり面倒くさいだろうというのが結論。
医学の勉強はしなきゃだけど、やっぱり面倒くさいだろうという結論。
両方とも面倒くさいけどやらなきゃ、というふうに書き換えられればいいのですが、、
それは自分のみぞ知る、てとこですか、、

遠い地の先輩を訪ねにいくのは案外楽しいもの。

そしてその後のTT氏とのディスカッションにより、自分は可能性の重み付けができない点が、社会的に特化して生きられない原因である可能性があるということが発覚しました。

あー明日からまた八時にオペ室だー…
↑↑
昨晩(若干突然)一こ上の勉強会のテーマを提供させてもらえることになったので、久々に早朝から集中して勉強しました。いやー、、わからないことだらけっす。。プレゼンターなのにほとんど情報提供できなかったという、、。先輩たちを見ていて、一年後はあれくらいにならなきゃいかんのかーと思うと、医学勉強しなきゃですね、、教材はそろっちゃってるし。

一昨日からユーロビートとテクノとハウスにはまってます。
トラック間のつながりが重要というのも聞くようになったら、よくわかる。
なんといっても眠くならないし、思考が止まる!!半分作業的にものを読むとかいうときにいいみたい。 クラシックでも思考は止められるけど、そうするとほかのことできないので。
うがー。
今日はGICUでした。
担当の先生は、東京都で足りてないのは何科かとか、精神科のQOLがどうとか、麻酔科は女性が多くて、それが何を意味するのかとか、そういうことばかりを話してました。麻酔に関しては、呼吸管理もほどほどに、循環管理の薬をちょっと触れただけというw 学生が学生のうちに現場で学ぶべきことは、人工呼吸器の細かいモードとかよりも、そういう自分が将来おかれるべき医師の立場なのかもしれないと思いました。まぁ何事も知ってて損はないですが。

医学生は医師免許を取らなければ、ただの何もできない健康オタクだ、とのこと。たしかに今社会に出ても、何もできないでしょう。医学理学系の研究をするにしても明らかに出遅れてるし、文系の知識は皆無だし。ここまできたら、何かMBAとか特別な資格でもとらない限り、結局医学の道に進まなければならないのでしょう。

医者になったら一定の教育システムをこなして、5,6年後くらいから徐々にオリジナリティを出していくというのが定説らしいのだが、それまでに何をどうすればいいのか、、つまり、今自分が手を付けている医学以外のことというのは、それにどの程度絡んでくるのか、判然としない。だから勉強半分、それ以外のこと半分の自分の今の生活に納得できない。そんな状況が続いているように思われます。

うがー。

将来について、半分(医師として働くこと)はわかっているけど、もう半分(オリジナリティ、個人としての将来の自分の立場)はわかってないというのは、なんとも生殺し状態な気がするなり。
オペでの奇妙な一致
こないだの日曜日にペルジーノ展に行ってきた。
宗教画がほとんどだったので感想はそれなりにあるが、なんだか最近宗教に関する考えが、世間の使う宗教という言葉とずれてきているような気がするので、その違和感がなくなるまで発言を控えめにしようと思う。ので省略。
一つ気に入ったのは、絵の中の「ケルビン」と呼ばれる智天使。ベビーフェイスに羽が生えてるやつ。

昨日から麻酔科。
オペもぼちぼちみてます。
プロポフォール打った瞬間から彼らの命はこちら側にあるのだなーという実感があって、どうにも奇妙なかんじ。
手術室でレスピレータにつながれている患者は、確かに生きているように見える。それで、生きている対象を認知するのは主観機能としての自分。その一方で、科学という観測至上主義の賜物である患者管理技術によって、その患者は生かされている。

自分の主観とは位相が異なる観測至上主義の結果である患者管理という事象と、認知を主体とした主観としての自分という事象が、生きていて、そして同時に生かされている患者という二重の意味を持つ一存在上で、奇妙な一致をみてしまったとでも言えばいいのか。
わかりにくいが。。
今後外科を回るのに、この違和感が解消されていればいいのだけど。
自殺を社会で考えることと、その意味性
ニュースより
「自殺を『語ることのできる死』へ」をテーマに、自殺対策について考える官民合同のシンポジウムが1日、東京都内で開かれた。借金苦で父親を亡くした女子大学生が自分の体験を涙ながらに語り、自殺をタブー視せず、社会全体で考える必要性を訴えた。高市早苗・内閣府特命担当相の「自殺がない、生きやすい社会の実現を目指したい」とのビデオメッセージも上映され、昨年10月の自殺対策基本法施行後、官民が連携して取り組む初の本格的な事業となった。

そこでは、自殺してもOK!という結論が出ようとは、誰も思っていないとして間違いないだろう。単刀直入に、非自殺(自殺禁止)教信者が語り合っても、自殺をしてはいけないという結論しか出てこないと思う。そして彼らが話し合った結果、自殺が「なんで」忌むべきことかについては、実に多様な意見と論理構成がなされ、自殺してもいいと思っている人に突きつけられるだろう。自殺したらおしまいな(自殺という選択すらできない)んだよ、と。周りの人が悲しむよ、と。それで、ああ、思い返してみなさい、あなたの周りの人が死んだら悲しいでしょ、と。これは、ある意味で陰湿な(自殺禁止がマジョリティであることに自信の源を見いだした、「善意」をもった非自殺教信者による)価値観の押しつけである。
「語ることのできる死」を本当の意味でテーマにするのであれば、今まさに自殺をしたい人もいっぱい連れてきてシンポジウムを開くのがよかろう。むしろ参加者のほとんどが自殺志願者の方が、信憑性があっていいのではなかろうか。きっとシンポジウムは混沌として、結論は出ないだろう。社会全体で自殺を考えるとは、そういうことだ。自殺志願者を排除する方向性が暗黙のうちに決まっている前述のような集会を開くのであれば、「非自殺教信者社会での自殺を考える」と題名を改めるべきである。ちなみにこのような宗教的集会に、ぼくは口を挟むつもりはない。その宗教性を、彼らが認識しているのなら。
極論ではあるが、本当にリベラルな方法で、建設的に自殺について考えたいなら、自殺を社会で考える前に、僕は「自殺を個人で考えよう」キャンペーンをおすすめする。いいか、今から頭の中で自殺してもいいかどうかよく考えるんだ。そう、よく考える。それで、現時点でよいから、「現時点で本当の」結論が出たもののみ発言してよろしい。中途半端に発言するなよ。後のものは黙っていろ。発言したら、その場から去ってもよい。それが本会の規則である。と。これじゃあ一生かかっても発言できないかもしれないじゃないか、と批判を受けるだろうが、僕はそこそこ重要なものごとについて本気で考えるというのは、そういう種類のものだと思う。そこで「よくわからない」という結論すら出せない人は、その会場で天寿を全うして然るべきだと思う。むしろそういう人々にとっては、その会合の場からでないで考え続けることこそ、何がなんだかわからないままになんとなく死を選んでしまった、という(死後も生前と同じように判断が可能であるなら)後悔すべき状況をなくす最善の方法なのではないか。社会には善意を持った「非自殺教信者」がうようよいて、自殺しちゃいけないよ、と情に訴えるように、理不尽に諭してくるのだから。一時的な情に流されて出した「自殺しません」という結論は、次の瞬間崩壊する危険性を孕んでいる。情に流されている時間分だけ、無駄である。人生は多分有限なのでである。
別に僕は非自殺教信者を虐げようとしているわけでは決してない。だが一つ言いたいのは、皆、「ものごとには結論がある」と思い込みすぎているように、僕は思う。だからそこそこの思考力を持った、善意のある「非自殺教信者」が量産される。

いつも僕は思うのだが、各種の啓蒙活動というのはどれだけ「意味のある」ことなのか。もっとも何らかの事象に意味があるかないかというのは、最も巨視的な視点で見れば(ゴールそのものがありえないから)非常にナンセンスな議論ではある。じゃあミクロの視点で見れば、たしかに意味があるかないかというのは(ゴールを設定すれば)判定可能であるが、それは設定されたゴールに対する意味であって、そのゴールに意味があるかというのはそれだけの情報では判断不可能であるから、結局意味があるかないかなんていうのは「意味のない」ことになってしまう、、、
こう考えると、「意味の有無」を考えることを放棄しても何も困ることはない。むしろ、放棄することによって「意味の有無」が「有意味か」を考えるという一種のパラドクスから抜け出すことができ、明日食べる御飯のあてを探しに行けるという、生命の維持にとって必然的な行動を優先することができるという意味で(ゴールの設定)、有意味であろう。(というパラドクス)
パラドクスによる言葉遊びはおしまいにしたいのだが、つい指が滑った。。
そう、まぁだから結局のところ、あるものごとの意味の判定というのは放棄してしまっても少なくとも考える原理の面で困ることはない(「社会」生活では困るかもしれないが、個人的生活では困らない)。それじゃあ何に従って行動していけばいいかというと、今まさに自分がどうしたいか、その「意思」とでも呼べるようなものを使うしかないのではないか、という意思を、僕は漠然と持っている。


ちなみに念のため、僕は多分「後悔しないようにしたい」という点に根拠をおいているので、「後悔禁止教信者」とでもいえるのだろう。

あと、現時点で保留状態で矛盾性のあるものは、
・意味性以外の判断基準が明確に確立されていないのに判断を下している点
・自分が自分の行動基準を求める点について
土曜日
卓球の五年会に二次会から行きました。マイノリティで黒い話で盛り上がりました。ごちそうさまでした。
そして人生初めて、靴がなくなりました(泣) 普通なら間違えてはいていったであろう人の違う靴が残っているはずですが、それすらありませんでした。 飲み屋のサンダルを借りて帰ってきました。 まぁ仕方ない、厄落とし。
そして友達が泊まっていきました。宿泊設備なくてごめん。床が柔らかいから許して(汗)

安部公房の『飢餓同盟』読んだ。なんとも理不尽だが、もはや感動すらしない。現実世界だって似たようなもの。精神異常者は社会から隔離されるけれど、それがどれだけ彼らにとって理不尽なことか。主人公の花井が同級生の誰かに似ているなーと思ったのは、ここだけの話w

先だって書いたオートポイエーシスの本を再開したのですが、なんか新しい論理構造がない、言葉の使い方だけを新しくした体系の気が…? まぁ要は内部観測なんでしょう、、

今日はとりあえず靴を買って、勉強会の準備して、NOAHでも行こうかというかんじ。。
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