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つづき
昨日のつづきのようなもの

議論の余地がないとは、こういうことなのかと思う。
客観視という言葉を忘れる。
いやなものは嫌だ。どうしてもしたくないと思うことは、どう考えてもやっぱりしたくない。こうやって嫌だいやだと言い続けていると、そこまで言い続けなくてもいいんではないか、やってさえしまえば後はどうでもいいではないか、こだわるなよ、という心持ちがしないでもない。けれど、この過程は以前に何度か通過したものなのである。やってさえしまえば確かに実際どうってことはない。が、それがどんどん積み重なって再び自分の負担になってくると、その反動は指数関数的に増加して、嫌だと思う意思がこれ以上なく強くなってくる。
その状況では当然、その嫌なことはできていないわけで、嫌だと僕がおもう"そのこと"をお前やってないじゃないか、と社会的に抑圧されると、もはやこれらの葛藤をコントロールすることは不可能に近くなってくるわけです。 それでもどうにか残っている社会性で今回は切り抜けたのだけど、もう次回があるとは思いたくない。

 多分僕は、多くの人よりもメールが嫌いで、人に合わせるのに人より多くのエネルギーを使っていて、それなのに人並みかそれ以上に社会で生きるのに魅力を感じていて、かつ何らかの成り行きおよび意思決定によって社会的仕事を引き受けているのだと思う。その不釣り合いがいけない。いや、不釣り合いであることは別に良くて、その不釣り合いを解消する方法を持たないのがいけないのか。

自分が今嫌だと言っていることをやらなければ、大袈裟に言えばだが、僕は社会生活を捨てることになる。ただ、おそらく僕はそれを望んでいない。
非社会的生活では、多くの人が正しい、楽しい、嬉しい、心地よいと思うことに反して生きることになる。それはとても受け入れがたい。
社会生活というのは綺麗に送ることができれば非常に爽快なのだけれど、その裏では自分を殺している状況が少なからず生まれていて、そのツケが溜まりに溜まると、どうしようもなくなる。(語彙が貧弱だが、これ以外に表現のしようがない)


結局まとめると、今の状態は以下のようになる。
自分がしていたいことと社会が自分に求めることにはどうしてもズレがあるということ。自分は自分がしたいことをしたい(当然)その一方で、社会でも生きていたいということ。社会で生きていくには、自分がしたくないことの多くをしなければならないということ。
そして何より、社会で生きるためにしなければならない、自分がしたくないことというのは、しばしば自分の精神を大きく圧迫し、その結果社会と自分をつなぐツールである携帯を破壊したいという願望にまで発展するということ。


それで、思いつく現実的な解決策
ある哲学者の本に、自分は感情的に怒ることができないのだが、冷静に怒鳴り散らす技術を身につけたら、生きやすくなったという体験が書いてあった。
例えばありうる方法として、自分がいやだと思うときに嫌な社会的できごとの催促の電話がかかってきたら、かけてきた人に「ふざけるな、こっちは出たくないんだばかやろう」と怒鳴って切る、というのもまた究極的な方法論としてありかもしれないと思う。社会的弱者は、社会に歯向かわないと、自分たちは正しいと思いこんで止まない強者達に流され、そのうち弱って鬱病で死んでしまうかもしれないのだ。メールの場合は、メールじゃなくて電話しろ、というテンプレートを返信する。テンプレートの送信すら面倒くさいだろうから、自動返信にしてもよい。
 多くの人は、メールというのはすぐに返信されて当たり前で、電話は出られて当たり前、それができないとなんてひどい、社会的にありえない奴だと批判するに違いない。
僕も本当に、本当にそう思う。非常にひどい奴だと思って止まない。
でも僕は、そうする人が仮にいたとしても、その人を糾弾することは決してできない。そうしないことには生きていけないのであれば、それは仕方のないことで、精一杯生きている証なのだと思う。

上の極端な話は現実的には寝かせておくとして(そんな風に怒鳴ったら、人々は頭のおかしな奴だと思って、結局社会的に生きられない可能性が生じる)、なぜ自分はこんな風に考えざるを得ないのか?そして他の人はどうしてこんな風に悩むことが少ないのだろうか? その違いが何かを解決してくれるのではないかと期待している。
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寝る前に考えたこと
以下たれながしまーす
読んで楽しいものでは絶対ないので悪しからず
行き詰まってるので、アドバイスとか意見とかくれる心優しいかつ奇特な人募集中~

一番よくわからない、わかったつもりになれないのは、自分自身のことである。
自分が何を本当にしたいのか、よくわからない。明確な価値判断ができない。そういう中でも時間は容赦なく流れ、自分は生きていかなくてはならず、そうするとなんだか良くわからないままに物事は進んでいっていて、それを起こった後から考えてつじつまを合わせようとするから、物事は結果論的で、成り行きで、理不尽になってしまう。
おそらく自分が今背負っている殆どの不満の原因はここにあるのだと思う。
研究室に行かなくなり、先輩には不義理をして、新聞の代表の仕事も危うくて、ポリクリも途中から中途半端で、メールを返すのは遅くて、自意識は強いように感じられて、笑っているのに疲れてみたり、人を羨ましく思ったり、じゃあそういう自分のことはどうかというと、自分についてよくわからず、価値判断については停止していて、もはやどうしたこうした不満やうまくいかないことが治っていくのか、そしてこうしたものは治るとか、そういう性質のものなのか、まったくわからない。
そもそも、わかるとはどういうことなのかわからないし、納得できないし、今自分がどうしたらいいかわからないし、自分が主体的にどうかしたらいいのかもわからない。
全てがわからなくて、わからないままでいいのかも、わからない。

わからない。

わからないという現象自体は仕方ないかもしれないが、不満が出てくるのは非常に困るし、何といってもこうした不満というのは、なんだか虚しいもの

とりあえず書いてちょっとすっきり…?
解決の見通しはいまのとこゼロ~~
今日電車の中で考えたこと
自分が自分の行動を決定する前段階に、自分がそのことを本当に必要としているのか?と考えることはありうる話である。と同時に、その問いの成立自体に疑問を持つこともまた、ありうる話である。
自分はそのことを達成したいと思う一方で、いざその契機が目前に現れたとき、その達成への努力を結果的に放棄していることがある。この態度は、自分が本当にそのことをしたいという気持ちを持っているのかという疑問を提示するのに充分である。

 あることがらに関する答えのようなものを一言で言い表したとき、それがそのことのどこまでの詳細を含んでいるのか、という疑問に対し、その言葉は、文脈を含めても明らかにしない。そのことをふまえると、僕がそのことを必要だと思っている、というのは、ある意味ほんとうかもしれないが、ある意味嘘かもしれない。結局何が本当か、自分にはわからない。(よくわからないから言葉にして考えたのに、結局言葉によってもよくわからないのである。まぁそうするとそもそも本当とは何を基準にしているのか、という問題が上がってきて然るべきで、僕はまだそれに答えることができないから、まだ僕はこの問いに対して答えを出せる段階にないのは当然かもしれないが)
 ただ単に、ぼくは自らその契機を目の前にしたとしても、それを自分の成功に結びつける努力をしないという事実がある。それだから僕が本当にどう思っているかなどは、表せたとしても、それは表せたと了解できる言葉の羅列のみによって達成され、おそらくそれは自分の行動を含む、思考、経験、記憶、そうした自らに属すると考えられる全てのものから注意深く抽出されるべき性質のものである。一言で正確に言うならば、僕の周囲にはそういう事実があって、要するに、ただそういうことなのである。

例えば僕は今、自分の仕事を満足にこなすことができない、メールをすぐに返すことができない、OBに連絡するのを先延ばしにしてしまう。これらは、それだから僕が日頃のストレスか何かで疲弊しているとか、OBとかそういう人間関係というものに疲れてしまっているとか、僕は今まで人の目を気にしてそれを取り繕うために行動してきて、その無理が祟ってボロがでてきているとか、そういうことを表しているのではない。いや、そういう正射影としての像は存在して然るべきかも知れないが、それは決してものごとの本質を表してはいないし、それによってその本態が解決されるかというと、必ずしもそうとは限らないと思う。というか、僕はこうした分析的視点に少しの限界を感じている。

※卑近な例でいうと、円錐を頂点の側から眺めると円に見えて、横から見ると二等辺三角形に見える、という性質は有名だが、その方法で物事を見ていくのは、すこし大変なのではないか、ということ。二次元で円錐をみるのではなくて、両眼視して立体的に捉えることはできないのか、ということ。

言葉によって一つの行動または現象を分析して、その一つ一つをつぶしていけば、結局その行動および現象は望まれる方向に変わることができるのか。そしてさらに、その一つ一つを変えることなんて、果たしてそのような状態の自分に可能なのかどうか、という問題もある。

とりあえず、僕はこのように行動した、考えた。その事象について、言葉によって全ての次元の意味を意味づけすることは、それが完全に達成されたという自覚もとはじめて達成され、それ以外の方法では不十分ばかりか、あらぬ誤解を自分自身に対して生じうる。そして言葉での表現を正確に忠実に行うには、種種の努力を要する。そしてその結果表された言葉一つ一つを検討することで、どこまでその問題に対する解決策が得られるかというと、それはまた別問題であるということ。

そして最後に、行動はどこまで自分を規定しうるのかということ。
あの人はあのように言ったけど、実際はこのように行動したから、じゃあ実際はこういうことなのだ、という理論は他人について分析するとき罷り通る理論で、それは社会においてそうみなされてしまうからにはそれに従うのも一つのあり方だとは思うけれど、じゃあそれっていうのは自分について自分で考えるとき、どこまでありうることなのか。

はぁ、長い。。
自分がやりたいものはどこですか~
過去の細かい過失や細かい不義理、後悔などが解決されないまま心のいろいろなところにこびりついていて、それが気になる今日この頃
過失や後悔はともかく、義理を果たさないとか重要なメールを返さないとかいうのはよくないとおもうのだけど、どうにも行動に移せないのは非常に困ったことだと思う。けど解決策は今のところ、現状を飲み込む以外にない。どうしよう~~。

どこかのスイッチでも入れたらできるようになるのかな?

あと自分は人と話すときどちらかというと笑って話している気がするのだが、こうやって一人の時間に音楽とか聴きながらエネルギー補充してるとき、そういう"笑いながら話す"という状況はおぞましく感じられる。それは他人に見せている自分であり、作られた自分であり、本当の自分ではないからなのか?何が自分にとって望ましいのか、よくわからない。まぁよくわかるわからない以前の問題として、こういうことを考えること自体が本来あり得ないことなのかもしれないが。

 少なくとも今自分がやっている全身を診ることのできる医者になるための全般的な勉強、そして社会生活を真っ当におくるための諸手続というのは、まったく楽しくないといえば嘘になるが、自分のどうしてもやりたいことに"直結"していないのは間違いのない事実なので、そこで葛藤が生じているのかと思ったり。


あー血内勉強しなきゃ。。
かぱ
今日はCPCのあとKAPPAいてきました。
先輩方と一緒に勉強するというのはすごく久しぶりなのだけど、やっぱいい刺激になります。邪魔にならないように参加したいです。
あと勉強会って、一人で勉強してて鬱になったときにモチベーションを上げ直すのにいいとおもいました。

あと最近リアルに肥えてきた… 
受験時代の様相を帯びてきてます。ヤバス


あとそうだ、今日生協で本買ってるときに友達に会って、
ソクラテスの弁明と、自殺って本を買ったのだが、
美少女モノとグロテスクモノを一度に買ってるみたいだな、と言われました。これからしこしこ読みます…
manicのちplateau
暖かい日の後に寒い日が2日くらい続いたので、昨晩から今朝にかけて若干manicでした。気分は秋でした。とりあえず血液内科は知識がないので萎え気味です

昨日は久々に自炊しました。自炊すると、自分が食べたものの量がわかるんですね。ちなみに米2合、タマネギ2個、鶏肉ささみ180g、ぶなしめじ1/2パックを食べたようです。

とりあえず今日は早く寝るー
現実逃避
科学は、科学で科学を説明しようとしたことがあるのかな?
自分の理論で自分が説明できなければ、本末転倒な気がするのだが。とフラクタルについて読んでておもいましたー
複雑系科学にしても医学にしてもそれなりにおもしろいけど、自身の信憑性を厳密に議論できなくてどうする、と思う。厳密な議論する必要ないとかいう意見もあるかもだけど、僕の言うその必要な議論ていうのは、別に他の理論を使って普遍性を持たせろとかいうのではなくて、少なくとも自身の理論を使うだけでいいから、とりあえず1通りの方法で自分の正当性を評価してみてよ、というくらいの要求なのだが。
まぁそれができたら苦労しないか。何事も一つのツールでしかないという認識しか求めなければ、別に大した影響はないはず。とはいえそのツールの持ち主は、おそらく自分と呼べるような何か。だからその自分に関しては少なくとも厳密に考えなくちゃいけないと自分は考えるわけで、だから僕はその自分(僕)と呼べるような何かについて考えずにはいられない。今までに体得してきた様式(主に言語と因果律を使用)で考えると、全ては自分と呼べるような何かに帰着してしまうから、なんとかしなくちゃいけないと、いつも思う。考える様式を変えるか、今のままで考え続けるか。だから僕は本を読む。そして、宗教を信仰している人を若干羨ましく思う。僕はもはや何か自分と呼べるようなもの以外を信仰する余地はないのだけれど、もし何かのきっかけで自分以外のものを信仰するようなことになれば、それは矛盾ないユートピアで毎日生活するようなものなのだろう。今自分は、自分の周りにあるいろいろな矛盾を解決したいと考えて四苦八苦しているのだが、そんなすばらしい世界では、哲学的にどんなことを考えるようになるのかなぁ。きっとその社会に於ける生産性と呼べるようなものだけはひどく向上するにちがいない。だから宗教の絡んだ建物は皆立派なのだと思う。
科学の各領域をつなげる理論として複雑系という考え方がでてきてるけど、この科学教信者だらけの社会に実存するため生きにくい僕としては、早く科学と実存の溝を埋める理論を確立して欲しい。あ、てかそれは理論でなくてもいいな。まぁ因果律が根本にある言語を使用する限り、理論での説明が求められてくることは多いのだろうけれど。とりあえず実感として矛盾のない世界に住みたい。


てか気付いたら明日からの血液ほとんどやってない汗
現実世界は楽しいけど厳しいのぅ
あとポリクリ4日間がんばるぞーーっ

***************
と書いてから気付いたのだが、科学は、科学で科学を説明しようとする必然性はないのですね。説明する主体はあくまで自分自身であるから、自分自身以外の主語が何かを説明する必然性はない。だから、科学は科学で科学を説明しないからと言って、それに対しておかしいだろ、と疑問を投げかけることはできないのかな。この辺は主体性についてもっと勉強しなきゃいけないところですか。。
おわた!
レポート終了☆ やた!
そしてやっと週末到来気分。
もうしゃきっとしてますよー

明日はなぜか学校休みー
ていうかさっきからプロコ→メトネル→ブラームスとテンションをあげてきて、今はシューベルトピアノ三重奏でノリノリな感じ。シューベルトは交響曲もいいしなーー

さて、
やりたいことは沢山あるけど、明日一日をどう使うか…
しゃきっとしたいなり
気が欝滞しているとでもいうのか、なんかうまくいってない感じ。
そういう自分に何が足りていないのかはなんとなくわかる気がするのだけれど、勇気がないのでそのままである。偉そうに言うなという感じだが、勇気は出そうと思って出せるものではない。自分の中では、出るときに出るものでしかない。出ないものは出ない。そういう現象論の使い方というのは、努力を放棄する可能性を高めるという意味で、人間を堕落させる。事実、自分は恋愛に関して堕落した生活を送っているのかもしれない。他の追い求めるべきことに関してはそこまで堕落している感触はないのだが。何故自分の経験の中の恋愛という部分に対してだけそんなにナーバスになるのか理由を考えてみるに、自分でもイマイチ納得できない。
僕は自身の経験一般に関して別に経験したくないものはないし、逆にどうしても経験したいというものもない。経験の評価というのはそれが結果論であるということから、原理的に事後評価が最も確実な評価方法。それゆえ経験する前に言えることといえば、「経験するものをただ経験していくだけだ」ということだけ。だから自分は、身の回りの事象に関する評価の殆どを事後に行っているのだと思う。

それなのに、何故恋愛に関してだけ過大に事前評価して、その経験を消極的に望むのか。多分最初のボトルネックは自分のコミュニケーション能力不全で、次のボトルネックは、自分だけの経験ではなく、他人も同じように大きく巻き込むという責任が生じる、という点なのかと思う。この二点が、評価すべき経験の質という観点からの、恋愛と他の数ある人生経験の大きな違いなのでしょう。
まぁいいや。考える材料が足りてない上に原理も足りてないし、料理できそうにないので議論は止めようと思う。

とりあえず外に出たいわけでもなく、かといって家の中にいると空気がよどんだ感じなのが嫌。天気とか気圧の成せるわざなのかよくわからないが、過ごしにくい。ショパンとかチャイコとかは聴くに耐えず、ひたすらスクリャービンとプロコフィエフ。期待はずれの音が心地よい。それまでに既に響いたひとまとまりの音型に次の音や休止がつけ加えられて、音型がその都度新しく作り直され、その新しいまとまりが確認される。というのが音楽を聴くときの主体性のありかただと思うのだけれど、プロコの音楽は、そのまとまりの形成が冷徹で期待を裏切ってくれる感じなのがいい。頭の中をかき回したくなる感じ。
うあー。。

膠原病の治療は基本ステロイドとその漸減だけれど、文献にregimenを作ろうとする記述が見られないのがなんか嫌。医療者に裁量が任されているのだろうけど、がちがちのEBMの観点からすると、気持ち悪い。ないなら無いで、標準のregimenはなくていいんだよ、くらいの断り書きはして欲しい。まぁ俺の頭が固いというのはあるのだろうけど。そして多分、精神科はregimenなんてものはあって無いようなものなのだろう。regimenが無いなら無いなりの方向に突き進めば健全だと思うけど、どっちつかずは一番よくないと思う。何も考えないでやるのは嫌だ。

なんか不満だらけの日記になってしまった汗。題材が悪かったかな。。
早くレポート終わらしてプロコのCD買いに行ってジョン・サール読みたいーー(>_<) デカルトの二元論の問題点が一部解決されるかもしれないのだ! とはいえレポ、今晩中に終わるかすらわからんのだけど、、。
りうまち終了
やっと試問おわたー@リウマチ内科
勉強していったことはほとんど聞かれませんでした。
途中で隣のK1が傾眠傾向に陥ってつつくのが大変でしたww
試問のおかげで準備段階でそれなりの知識はついたし教科書もそこそこ読めたけど、あくまでそれなりだし、、何よりも多分すぐ忘れるし。
とりあえずこれからレポートに専念できることを喜ばしく思う。

自分の中で一番勉強になったのは、最後の症例カンファでした。
縦割りの知識を横糸でつなげなきゃいけなくて、横糸を張るためには結構細かい縦割りの知識が必要そうだということ。あたりまえのことですけどね、、でもそれがどういうことなのか、そして何をしていったらいいか何となく分かった気がしたのでした。

というわけで、モチベ↑↑で明日から三連休突入~~!
なんかなー
患者を直接みないと、結局モチベーションは上がりきらないとの印象。原理的には、勉強するにはカルテだけで充分なはずなのだけど、うーん?ってかんじ。おそらく自分の興味の対象がScienceではなく自分の体験にあるからだと思うのだけれど、、、ほんとうにそうなのか?

だから外来で見聞きしたものは忘れないのだけれど。
如何せん病棟ではカルテだけだから、えぐいすー
なんて言ったら狭いNSの一区画を占領するんじゃないと怒られるかもしれませんね。。

上がりきらないモチベーションのまま勉強に突入すると、睡眠だけが拠り所になります。昨日今日と八時間寝てるし、、明日試問なのに進んでないし、、やばいなり~…
正義は馬鹿だ
自分のことを正常と思っている異常者ほど、扱いづらい者はいない。自分のやっていることが正しいと思っている、どうでもいいことをやっている者ほど、面倒くさい者はいない。(別に比較級+比較級を用いて和文英訳しなさい、という問題を作ったわけではない)

自分が正常であるとか、自分がやっていることは正しいとか、あいつは間違っているとか、異常だとか、そういう評価基準というのは、百害あって一利なしなのではないか。仲間同士で馬鹿言って大笑いしたいときには欠くことのできない語彙ではあるが、少なくとも真面目な面持ちで発する言葉ではない。「自分はメジャーである」とか「俺は正しい」とかいう形骸化した盾の陰に自己の脆弱な本質を隠して、それでぬくぬくしているのは、本人も生きにくいに違いない。そういう盾というのは、軽い一言によって打ち破られてしまうものだから。正義という広いスペクトルを持つ抽象言語に大して、反例をあげるのは非常に簡単なこと。かくして自己正当化というのは、時に自分を大きく傷つける刃物となる。そしてその痛みが怒りに変わって、それが正当化という化けの皮を剥がした他人に向けられたとき、その怒りは他人を傷つける。みんな傷つく。

要は他人に対する自尊心なんて持たない方が、大体において幸せなんだ、ということ。(勿論自分に対する自尊心は保たないと生きていけないが。自尊心の種類については自分のイメージがあるので後で書くかも)

馬鹿とか阿呆とかどんなに罵倒されても、本当に何とも感じない、その鈍感さと無気力さが、時に幸せを増大させる。
笑いの功罪
人の話を聞いていて、気付かぬうちににやけていることがあるのだが、それはどうにもしようのないことなのである。それはおそらく、梅干しを見ると唾が出てくるとか、気になる異性に話しかけられると周りのことはどうでもよくなるとか、そういう類の無意識さと似ている。
それを最初に自覚したのは、中学校の時、すぐキレる肥満児にボールをぶつけたとかで、奴をキレさせてしまい、殴られないようにと必死で謝っているときに「おめぇにやけてんじゃねぇよ」と言われたとき(結局殴られた)。それからしばらく表面上は問題なかったように思うのだが、笑うべきでないところでにやけてしまうのは依然続いており、気付くと噛み殺さねばならないことがある。
別に人を蔑むとか、優越感に浸るとか、まったくそういう気分ではない。何を以てして自分の表情筋が緩むのかは未だ不可解だが、基本目上の人といるときには取りかえしのつかない不謹慎な事態にならないよう、それを基本的に殺すようにしている。特に最近、病院内にいるときはそれがデフォルトなはず。

笑うという表情を作るような情感の動きというのには、実にいろいろな要素が絡んでくると思うし、それだけで一冊の本が書けてしまうくらいであるのは確か。一つ言えるのは、その根底には自己の防御、人間関係の円滑化を目論む動きがあるということで、それなのに笑うことによって人との関係が損なわれてしまうとしたら、それは非常に悲しいことだと思う。

今ラジオを聞いていたら、巨人が一挙7点をあげたそうな。久々に巨人らしい強さ。愉快に笑いたいところだけれど、傍に阪神ファンがいるときには、絶対に笑えない。そのうち一人でいても笑わなくなる。それはそれで悲しいもの。(まぁ一人で笑っていても気持ち悪いかもしれないが)

笑うも笑わないも、いずれにしても理不尽なのは、自己の認識する世の中が基本理不尽であることをそれなりに受け入れているはずの自分からするとあたりまえのはず。だけれども、今まで無意識にやってきたことに関する理不尽さが露呈されると、それはやっぱり悲しいことに思える。
結局何事にも理不尽性がついて回ることに変わりはなくて、それをその裏あわせとしての幸福性と共に、噛み締めながら生きていかなくてはならない。
消化器終了!
教授のレポチェックにて消化器内科終了
やじーと、担当してた患者さんに会えなくなると思うと、ちょっと寂しい気も。やじーは学生の立場に立って、実に親身に指導してくれました。この恩恵と初心を忘れないように、あと二ヶ月続く内科を乗り切ろうとおもいます。

それで、ロッカーに居合わせた班員K1,K2とうちでプチ打ち上げを。やっぱ八海山は旨かった☆

明日は買い物とCPC勉強会と、胃癌以外の疾患をやろうと思う。さすがに胃癌以外ノータッチはやばい。
てか今日他の班のブレーンと話してたのだけど、やっぱ勉強しないとやばいです。やってる人は相当やってるぽいす。朝倉読むのはあたりまえ…??むしろHarrison‥?英語もねーー…
安息日
今日は早上がりだったので昼寝したー
気持ちよかったー
そして少し木村敏の本を読んだ。何を言ってるのかよくわからない。思考力と想像力の欠如。ここ最近違うところに神経を遣っているからか。胃癌に踊らされている自分。

教授の外来はよかった。オーラが違った。
明日レポチェックなので、もうひとがんばりしなきゃーー
なんか教授もいらっさるらしい。ガクブル
ていうか胃癌以外の疾患はいつ勉強するのだろう。。
担当症例以外は以前とモチベーションがかわらんのは仕方ないのか。
terrible day
今日はひどい日だったーー
自分が勉強する権利を奪うもの(人ではない)に対しては、本気で眼前から失せろと思います。俺は学生だっちゅーの。

だいたい朝から晩までカリキュラム組んでおいて、それでそれをこなした上で社会勉強もしろってか。昔は勉強を切ってよかったかもしれないけど、今は学生は勉強できないと、そのことで「こっちはちゃんと教育してるんだからさー、そのくらいできないでどうすんの」蔑まれることもあるんだからさ。ちょっと状況が違うのを理解して欲しい。まぁこれが問題の核心ではないが.

おらぁもうつかれたよ。
消化管
今日はEMRとERCPで、食道と胃の粘膜をこれでもかってくらい見ました。
あそこに刺激物流しちゃだめですね(>_<)メーヤウとかもう食べられん…ラーメンもきわどい。肉も良くなさそう。野菜と果物以外は通るべきでないのでは、という見た目の感想。
内視鏡は惹かれます。うまく通すためにいろんな要素がある。USもプロが解説してくれるとおもしろいし、単純XpとかMRIとかの画像診断もおもしろいけど、内視鏡は違った意味で奥が深そう。先端から出す器具もいろいろあるし。上手くなったら絶対おもしろい手技だと思った。

つか明日症例発表なのだが、まとまらん。どうしよーー
ケーキバイキング
今日はパ○スホテルでケーキバイキングでした。
地味に生まれて初めてw
甘いものには限界があることを知りました。
普通のバイキング感覚で食べてたら、最初の30分2皿目で結構ギブでした。それでも12,3個は食べた~w 種類を楽しむためにちょっと手をつけて残すという裏技もあるそうなのでw、今度来たときはやってみようか。まぁ勿体ないから全部食べてしまいそうだけどw

帰りに銀座の山野楽器で散財。

家に帰ったらケーキの反動か異様にみそ汁を飲みたくなったので、今日の夕食はみそ汁です。日本人。
Naxos free
学部生のアカウントでkeio.jpというのがあって、それを使うといろんな有料サイトが無料で使えるのだけれど。たとえばpubmedは家でも使えるようになったし、fulltextも出てくるのでスバラシイわけ。あと他にもいろいろあるんだけど、中でもNaxosのサイトでストリーミングを全部聴けるってのがあって、今日はそれを昼に見つけた後は、一日机のスピーカーから音楽流しっぱでした。Naxosは出してる曲はマイナーを網羅してるからその点はいいのだけど、音源としてはマイナーなアーティストばっかで、有名な曲ならEMIとかLONDONとかの方が取り揃えがいいからNaxosで買う気にはならないのだが、無料となれば聴かない手はないということで。

しかしpubmedでアブストしか手に入らないのが多すぎて萎える。1/10しかfulltextが出てこないってどういうことよ。。明日学校いくのめんどい。
都知事選
政見放送をyoutubeに流すなとかいう報道があったとおもったら、りょーてぃーの日記にあったので見てみた。
つか外山恒一って、、 いろんなアレンジverがあって、一番似合ってたのが「映像の世紀」verだった。イメージは完全に昭和↓。
http://www.youtube.com/watch?v=4oSDvB-XZ-M&mode=related&search=
もののけもよかった。

俺は投票権ないけど、調べてみたら都知事選にはいろんな人が立候補してるんですね。タクシー運転手とか、易学者とか。


ポリクリは、なんだかやたら疲れます。何をやっても要領つかめないし、病棟では居場所ないし、先生は忙しそうだし。
ただ、早起きは身に付いたようです。
QBが手に入らない今、今週末と来週で胃癌マニアを志します。。
気にしすぎ
ポリクリも三日目終了
なんとなく自分がやっていることがどういうことなのかわかってきた気が。。(遅
これから長すぎるところを切って、短いところを継ぎ足していって、それで大体ちょうどよくなった頃におそらく今の科が終わる。そして次の科でも同じことが繰り返されるのかな? こうして無駄にえぐる、というのがいつものパターン。
切って継ぎ足しての割合を無駄に細かく気にしすぎるのかな?
改善の努力を。。


ものごとの本質をとらえたいという希望が強く、同時にある程度の輪郭を捉える基本能力はあるのかもしれないが、そこから先が進まなくて、結局えぐることが多いのだと思う。 これが、自分が自分のことを中途半端、と思う時の原因であることが多いのかと。

勧誘もはじまりましたね~~
うちの部に関しては手放しで安心してるので、適度に楽しむ方向で☆
足引っ張らないようにがんばります

笑顔ってやっぱりいいなーとおもった一日でした~
ポリクリ初日
ポリクリはたしかに大変だけど、やりがいあります。
はじめは身の置き所がなくてそわそわしてたけど。
消内はきついってきいてたけど、カルテに記載するSOAPのSからPまでの道程を的確に導いてくれるようなカリキュラムを組んでて、勉強になります。他の内科もそうなのかな??
明日は七時くらいから問診と診察。
勉強すべき課題もたくさん。

患者がそこにいる、という事実は想像以上に重いです。
勉強したくないとか言ってられないわー、というのが初日の感想。
記事と風邪、ポリクリ始まる
新聞記事書いた。依頼稿。
てか地味に自分で書くのは久々。校正はたくさんしてましたが。
そして今回は、初めて対談形式のものを。
むずいー。
タイピング能力を限界まで使って、その後はひたすらつじつま合わせ。
こんなに発言変えちゃっていいのかってくらい。まぁ本人も喋ったことなんてそんな覚えてないだろ、と思うことにする。
逆に言うと、編集者の意図によって相当内容が歪曲しうるんだなーってことを改めて体感。コワス

風邪ひどい。昨晩から16時間寝てやっと起きられる。
はやくなおれよー。病院で処方される類の薬(PLとか小青竜湯とか)ではなんだか効きが悪いので、薬局に市販薬を買いに行く。以前そうしないと耐えないくらいの風邪ひいたのは、たしか二年前に遡る。
飲んだら一瞬で症状が消えた。だるさはとれないが、仕方ない。明日に備えて寝よう。

そう、明日からポリクリ。
研究するかもしれない期間を除いて、これから長い年月患者を前にするのだろうけれど、その第一歩となるのはなんとも感慨深いかもしれない。
それとは別に、新しい環境に放り込まれるというのは、何とも心もとない。まぁグループの皆がいることを心の支えにして臨んでこようと思う。
一時脱カイン
今日は
キャンパスツアー→白衣式→部会→精神科セミナー→追いコン


やっぱ社会も悪くないなーと思った。
自分が引き篭もるときに原因は社会における経験にあるのだけれど、それは自分にとってたまたまそこが不適切な場所であっただけで、その他の場所は全然受け入れられるもので、その中で自然に生きていけるものなんじゃないかという印象を持ちました。
そのくらい恵まれた状況でした。

みんなありがとう
本当に。


生きる環境を選ぶのは、自分にとって至上命題だと思いました。
だって考える環境によって全然違うのだもの。
何が自分にとっていい環境かっていうのは極めて難しいけれどね、、。
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