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カイン
中島義道の「カイン」を読んだ。
昨日ブログで書いたこととタイミングが絶妙に一致してて若干驚き。

僕の中には間違いなく、そのカインが順調に育っていて、それがメールをすぐ返せないとか、新聞の原稿の締め切りをいつもぎりぎりにしてしまうとか、そういう現象を引き起こしている。これは自分の反社会的行動に対する言い訳でも何でもない。そして、そうすることに後ろめたさは殆ど感じない。ちなみにこれは傲慢の類ではない。ただ単に、謙虚に、現実の自分がそうなのであるとしか言いようがない。さらに、後ろめたさを「殆ど」感じないのであって、まったく感じないわけではないのは、自分が100%のカインではないから。社会性を簑のようにまとわりつけた疑似社会人としてのカインでありたいと望んでいるから。

「カイン」とは本の中に出てくる用語(人名に由来する)で、「自分が疑問に思っていることを考えずにはいられない人」とでも言えるのか。カインは世の中のマジョリティと感受性が違うから、いつもマジョリティー的に「正しい」ものに迫害されて生きなければならず、それでもカインであることをやめてはならぬ、自分をごまかして生きるな、みたいなことが本には書いてあった。まぁ自分は言われなくてもやめるのは原理的に不可能だから、やめるつもりはない。ただ、社会性というのはカインにとって不合理そのものだから、疑似社会性を持つカインとして生きる以上、そこに摩擦が生じるのは仕方がないぽい。
ちなみに自分の場合の疑問は、「今まで生きてきた中で帰納的に得られる、ものごとを考える為に必要な根源的な問いとしての『自分とは何か』という疑問について考える」こと。

以前、自分の感情は快と不快の二項対立では捉えきれない、と書いたのだが、それは自分の内面にカインがあって、それが社会に適応しないものであることを認知していなかったが為に起こった不具合であるらしい。これは著者の考えから導出した結論だから、どこまで正しいのかはわからないが、少なくとも思い当たる節はあるように思う。それは直前の投稿に書いた「うまくやる必要なんて更々無いと大脳皮質は言うのだけれど、条件反射的に外面を形成する脊髄反射だけは残っている」の部分で、こういう意識(無意識のうちに100%のカインではいられなくて、自分の率直な部分を曲げることによって社会に適合しようとする姿勢)があるから、快と不快以外のものとかいう議論がでてきたのかなーと思った。カインだったら、快と不快だけで事足りるはず、らしい。

以上中島義道ワールドでした。
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日記
この春2度目の風邪~~
風邪をひくこと自体珍しいのに、二度も立て続けというのはきっと厄落としに違いない。ポリクリは内科で一番大変そうなところから始まるらしいし、、そう思うことにしよう

車を運転したくて仕方ない。衝動としか言いようがない。何故かはわからないが、自分は運転が好き。
どうにも止まらないので、朝からリブロに繰り出してレンタカー借りる+ガス代分くらい本を買いこんだ。同じ金額かけても、どっか車で放浪しているよりはいいに違いないと。。

夜は近くのラーメン屋へ。ここのところ連日である。身体に悪いとかそんなに旨いわけでもないなーとか、そういうこと関係なく通っている。 要は"普段行くところ"というのが自分には必要なのだと思う。そうでもなければこれほどまでに通い詰めることはない。自分は、安心できる領域というのを欲しているのだと思う。いつもそこにあるという、ただそれだけでいいというもの。
そこでは漫画が読めるのだけれど、漫画というものに大学はいるまで殆ど暴露されてこなかった自分には、真新しい読み物として映る。ちなみに今はドラゴンボールを読んでいて、今日は悟空が死んだ。

外付けHDDを買ってきた。これからそっちにデータ移して、本体を再インストール予定。今までメールクライアントを三種類くらい使ってきたのだが、そのデータを集めるのが面倒くさい、というかどこに格納されているかこれから探さなければ。。
新しいハードウェアというのは、大したことないはずなのだけれど、そこには小学校の頃にプラモデルを作るときに感じるのと同じような興奮がある。これは一口に女性にない感覚だと聞くが、何が違うのだろう。女性は幼少期にプラモデルを作らないからなのか。

明日は白衣式。
どこぞの偉い方が寄付してくださって白衣をいただいて、しかも何か祝ってくださるというのだから出ないという選択肢はないはずなのだが、如何せんあまり人と会いたくない。風邪で調子が悪いのか、精神的に引き篭もっていたいのかはわからないが、大勢の人に会ってうまくやる自信があまりない。もっともうまくやる必要なんて更々無いと大脳皮質は言うのだけれど、条件反射的に外面を形成する脊髄反射だけは残っているようなので、致し方ない。反射を抑えられるほど高次機能は発達していない。
しかも自主学習表彰者というだけで親のキャンパスツアーをやらされるという意味のわからない制度によって、若干人より多くの精神的負荷がかかるという理不尽さ。

まぁいいや、どうあがいても多分明日は来るし、そしてそれはいつか終わるんだ。
22冊目の春樹
一ヶ月ぶりくらいに村上春樹を読んだ。
なんとなく読まない方がいいような気がしていたのだが、昨日買ってしまったから仕方なく。

読んで残ったことは、今まで春樹を21冊読んだ中で知ったことの再確認がなされたなーということ。あとは自分の知らない情動の動きが少しあって、それは自分の理想ではないなーという感想。数をこなすに従って、春樹がおそらく考えている核の部分と、その周辺のいわゆる小説としての肉付けが分離してきて、それと自分の現状とのaffinityが明らかになってきたという感想。合っている部分と、受け入れ"たくない"部分と。

多分自分は、以前ほど彼の著作を必要としていないのだと思う。自分を自分とは違う周波数の振動で揺さぶって、自分にいろいろなことを気付かせてくれたのは間違いなく彼である。しかし、度重ねて彼の著作を読むことで、一度気付いたことがもう一度同じような方法で掘り返すように刺激されるのは、徐々に固まりつつある未熟な自分の核の部分をもう一度揺るがせるようで、少し受け入れにくいということ。

おそらくあるきっかけがあるまでは、彼の著作を積極的に読むことはそうないだろうな、と思う。そのきっかけが何かというのは、推測に過ぎないのでここでは明言しない。
まぁそれでもそんなトリガーなんて関係なく読んでしまうかもしれなくて、しかもそれは原理的に予測不可能であり、それがいつになるか、という疑問に対しては「しばらく後」と答えるしかなく、またそれがどのくらいありそうか、という疑問に対しては「たぶん」と答えるしか方法がないのである。春樹的に。
試合を見てて思ったこと
医歯薬が今日で終了。
みんながどんどん強くなっていて、ほんと驚いた三日間でした。結局なぜ卓球なぞするのかという答えもほとんど出せないまま一応現役を退いた自分だけれど、自分が練習することで得られること以上に、部員の様子を見ていて得られることというのは大きいとおもいました。

自己中なネガティブな話ですが、自分は四年の夏で練習に出なくなりました。それでこの冬に試合会場に来てみて、周りがすごく強くなっていて、試合で勝って、応援を受けて、そこでpositiveなfeedbackが起こっているのを見ると、卓球部として、そして部員として大成功していて、非常に喜ばしいことなのだろうけれど、自分が少しだけ残念に思われます。自分もあと半年だけ気持ちを切らせていなかったら、その渦中にいられたのではないかなぁ、と(これが思い上がりであることは勿論ですが)思うのです。でもあの夏の時点では本当に限界だったし、今の状況を後悔しているわけでは全くない。けれど少し寂しく、そして残念に思うのです。
自分は今までに、何か大きなカテゴリに対して"諦めた"という経験は殆どありません。そもそもそんなに多趣味でもないし、手をつけていることといっても、細々続けられて他者との関係性が薄くて、競技性の少ないものばかりだったからかもしれません。何事もある意味諦めさえしなければ「なんとかなるのでは」というテーゼが自分の中にはありました。今でもあります。(もっとも試験に関しては諦めてもなるようになる、ということを学びましたがw) この「なんとかなる」というのは曲者で、結果論でものを言う立場からすると原理的に当然なので何も生まれないのですが、経験を帰納的に総合するとそういうことになっていたので、それで満足していたのだと思います。本当はもっと正確な言葉で表現するのがいいのでしょうが、今これについて考えるモチベはないので「何事もある意味諦めさえしなければなんとかなる」テーゼがあったということを便宜上認めた上で話を進めます。

自分が四年の夏で卓球から手を引いたのは卓球自身に関して見切りをつけたからではないので、厳密には卓球を諦めた、というわけではないのですが(卓球部の練習に出るのを諦めた)、(原因は多因子なので省略して、結果的に)卓球を諦めて半年たって印象的なのは、自分は積み上げられてきたものの上に座ることには慣れていたけれど、今、自分が積み上げたものが崩れていって、その破壊の様子を見るのはこんな気持ちなのか、ということです。そしてその自分の隣では、自分が諦めたポイントからまたさらに諦めずに努力して積み上げて、結果を出していく姿がある。この取り残され感、自分もできたのでは、という思い上がり甚だしい残念感というのは、忘れることができない。
それでも救いは少しあって、(非常にいいわけがましいですが)それは自分が卓球自身に見切りをつけて(いわば卓球をknock-outする形で)やめることにしたわけではない、という点です。自分について考える時間の確保、他者との関係性、自分の信念と行為に対して不適合な環境、それらの負の感情が卓球そのものに転嫁されて起こった卓球への不満など、卓球競技そのものとはあまり関係の源を同じとしない点から発した転嫁された諦観に押し出されるようにして"いまやることリスト"から削除された、という経緯がある。特に、卓球を含めて、自分が何かをすることの意義(それは、全ての物事に対して起こる「いろいろ性質があるのはいいけど、じゃあその(演繹的な)本質は結局何よ?」という疑問からくるのだが)を時間をとって考えるための準備をするということは、当時の自分にとって、無くてはならないものだったといえる。行為の意義を考える為に、その意義を疑う行為を中止するのは一つのあり得る選択肢で、しかもそれが精神的に差し迫っていたという厳然な事実を考慮すると、比較的妥当な話ではないかと考えるのだが如何。
それはともかく、自分が卓球部でコンスタントに練習してきた三年半の間に起こってきた一連のできごとというのは、自分がそういう理不尽とでも言えるような(これもまた思い上がるな、という指摘をいただきそうだが)環境において何が必要か、そしてそこで何を大切にしていけばいいのかわかったという点では、結果論的によかったのかもしれないと思う。

今までは試合の度に「何かが違う」と思い悩んでいたのが、そのロジックが漠然と言葉で説明可能になり、それによって次の自分がよりsteadyな様式で生きていく指針が立てられていったというのは、その期間卓球に命をかけて練習するのと同じくらいの意義があったのではないかと思います。後味は違うけれど、とりあえず、考えた結果次に進めたという意味で。


こういう主張を自分で書いておいて、これってなんて自己中心的で自己正当化された思い上がりなんだ、と思うけれど、今回は自分の中で落としどころをつけた内容だったので、そういうものとして認識してもらえると助かります。自己正当化の方法を間違えると、とんでもない人間性が出来上がると思うのだけれど、逆に自己正当化ができないということは、それはまた生きにくい人生を送ることになると思うので、、
というわけで、何か方法にこれPだろってところがあったら指摘してもらえると嬉しいです~


<今後考えてもよさそうなこと覚え書き>
ハードとしての言語(言語哲学、論理学)
ソフトとしての自己正当化
これまでのあらすじ
簡単に言うと、以下のようなことです。
誰にでも、本当のものを知りたいという欲求はあると思います。
そこで僕が自然に選んだ思考方法は、方法的懐疑でした。デカルトの。
それを日常生活に適応したら、結構どうにもならない状況に陥りました。それはデカルトも認めているところらしいです。日常生活の選択と懐疑による結論は別物だ、と。ただ、僕には別物、では説得力がありませんでした。自分の真理を知りたいなら、自分に適応しなくてそれがどうして知ることができよう、と。その結果全ての価値判断は原理的に停止し、自分が何であるかもよくわからなくなりました。その状況で2年ほど、漠然とした懐疑を深めながら過ごしてきたわけです。日々(日々という程何かしているわけではないが)試験やら部活やらルーチンの仕事やら社会的生活をこなしていくことに、かなりの困難と無理を覚えていました。

そこで、この春休みは情報収集に徹しようと考えたわけです。
いつもの如く、空いている時間があればそこには必然的に予定が入っていくので(この姿勢自体が間違っているという話もあるが、自分の帰るべき社会は残しておきたいので致し方ない)、充分にそれができているわけではありませんが、意識的にこれを行ってみているところです。

今のところ、方法的懐疑の"不毛な"部分を削除して、そこに文脈主義という解釈を加えるという方法があると知りましたが、なんかしっくりこないなー、と。方法的懐疑を一部棄却する"不毛性"の意味がわからない。強引な筆者のイデオロギー的なものに拒絶反応がでたぽいです。
でもぼんやり本を読んでいるうちに、マルクスとかの社会学も悪くないなーと思い始めたというのは、一つの収穫ではあります。

ある本に「一度過去の哲学者が建てた建物に住んでみて、しっくり身体になじませてから全部それらを壊して、新たな自分の建物を建てる」作業が必要だ、と書いてありました。今の自分がすべきなのは、いろいろな哲学者の考えを、もっともっと身につけていくことなのではないかと思います。同じところで立ち止まっては、時間が足りない。とはいえ方法的懐疑は未だに完全な解決策が出されたわけではないそうですが。


そんなかんじで。
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