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どくしょかんそうぶん
「若者はなぜ正社員になれないのか」を読んだ。新書にありがちな的外れなタイトル。内容は全然違う。

覚悟がありさえすれば、やる気は自然に出てくる

の言葉に、思わず首肯。
その覚悟というのは、能動的に今の自分を殺し切る作業だという。
未だ社会の中で生きていなくて、自己と社会を切り離して考えるという共通点からか、この語感はぴったり来た。

筆者の自己欺瞞的な部分が気になったけど、そこを削ぎ落として読めば結構面白い。

①一通りのありうる将来の可能性を(実践無しの内省により)見渡した中で、何もしない(今を生きる)ことを選択して二年間。そんな食べていけない今の状態を辛いと感じて、変わろうとする筆者

②将来に向けて行動を起こした結果、行動の結果得られる安定ではなく、行動しないことによる不安定の中で、安定を探し求める行為そのものに生き甲斐を見いだす筆者

その辺りが自分的なポイント。その辺りに注意すると、結構深いです。
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散歩
実証科学的アプローチで自己の可能性を外的に拡げること
哲学的アプローチで自己の核に内的に迫ること
いずれも必要なことかもしれないけれど、
それにもう一つだけ、大切なものを付け加えるとするなら、
それは、現在の暫定的自己像を感じることだと言いたい。

それは勿論考えることでも得られるだろうけれど、
身体で感じて初めて、しっかりとした厚みを成す。

そういう土台があって初めて、
それを拡げることもできれば、
また掘ることもできる。


そんな周りの人から見たら簡単で、考えなくても当たり前のようにできるはずのことに気付くのに、随分遠回りしている気がする。でも、遠回りは一種の散歩であり、地面を身体で感じることだと信じたい。

今朝は散歩をした。
キター
最近投稿が荒れてますが、あしからず、そんな時期もあります。。

澤瀉久敬の『哲学と科学』を読み終わった。
最後の章が熱すぎた。今の自分にとって一番大きかったのは、哲学と科学の位置づけを見事にしてくれたこと。想定している自己認識のモデルも、自分がここ数年勝手に考えてきたものとほぼ同じだったし!こんなこと滅多にない。 先にチャルマーズとか読んで挫折してなくてよかった。

この本は、もとは3年くらい前にブックオフで見つけて買ったものの、当時は実感が全くなくて初めの方だけ読んで放置してたものなのだけど(今見返すと変なところに線とかひいてあるしw)、この時期に本棚の奥からふと取り出して読んで、こんなにもインパクトが大きいとは思わなかった。自分の本棚にはそういう放置してある本が結構あって勿体ないなーと思ってきたけど、こういう瞬間があると知って、テンション上がりまくり↑

自分の今おかれた環境と自分の考えの不整合は、このまま流されてまぁどうにかなるでしょ的な発想がもはや通用しないところまで進んでいるけれど、その不整合を自分のものにしてうまく対処する可能性が提示された気分。生きてて良かった。
夜のドライブ
車を運転したい。街灯のない真っ暗な高速道路で、自分の限界までスピードを上げる。タイヤは路面を正確に拾い、その振動を誠実に僕の手に伝える。風圧に打ち震える車体の振動は、シートを通して包み込むように僕の背中を震わす。全神経をタイヤと路面の摩擦、車体の角度に集中させる、極度の緊迫感。限界を求めはするが、あくまで自分のコントロール下に。一歩踏み違えると、そこには死が見える。その自分との駆け引きがおもしろい。
あくまで自分との駆け引きであって、そこに他者はいない。

車の運転だけでなく、自分の運転に関してもそれは同様。
自分が外界を認識する様式とその印象。それを極度に鋭敏化させた神経で如何にとらえるか。精緻に、かつ包括的に。そしてそれを如何に自分のコントロール下に置くか。その自分との駆け引きが、おもしろい。

(その意味で、F1ドライバーは作家でありうるが、トラック運転手はサラリーマンでしかありえない。)
Gödel dependent
現役アナウンサーが自殺したそうですね。いつになく悲しく思います。それはきっと昨日自分が読んでた中島義道の新刊で、時間軸を現在以外の点から客観視しない視点を理解しようとしていた後遺症が残っているからなのでしょう、、
ちなみに木村敏のノエマとノエシスは新しい概念でもなんでもなくて、フッサールとか、日本人だと波多野精一が既に未来把持という言葉で提出していたらしいですが、まぁそれはどうでもいいです。

ほとんど同様の体験をした人がいたとして、片方は自殺しても、もう片方は自殺しないということはよくあることだと思います。ある出来事がきっかけで鬱になるかどうかも、その人がその時点でそれまでに積み上げてきたものによって変わる。変えることができるだろうにもかかわらずうまくいかなくて、鬱になってしまったり、最終的に死んでしまったりする人が少なからずいるというのは、なんとかならんかなーと思うものです。あー思考が散漫だ、、

彼女も現実が辛かったなら、せめて哲学にでも逃げ込めればよかったのにね。ちなみに哲学の観点から言うと、自殺という"実践"は哲学からの逃避です。だから哲学青年の自殺、というのは厳密には成り立たないとのこと。
哲学やってる暇がないくらい切羽詰まってたなら、宗教でもよかった。
(なぜそこまでして自他がの自殺が良くないと思ってしまうかは、まだ言語化不能)

他人のことを考えるというのは、そもそも方法論としては(功利的には良くても)完璧ではなくて、他人のことは言語以外の方法で感じる方がいいのかもしれない、と最近思う。そして自分のことについても、言語で考えるというのは完璧に限りなく近い方法だけど、所謂"日常社会生活"で自分がほんとうに大事にしなければいけないのは、言語では言い表せない部分の何かなのではないか、とも。ゲーデルに依存的に。

明日から2日間月ヶ瀬に飛ばされる。
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